岩壁と洞窟と島々岩々とを船から指して見せ、ほとんど研究的といつていゝ程の熱心さで、そこの集塊岩には甌穴《おうけつ》がある。こゝの花崗岩には岩脈がある。と私に説明してくれた。こゝには東海岸と、西海岸とある。私達はまづ東海岸から見て囘つた。
無數の島々から成る眺めの好い場所といふと、人はよく松島あたりを比較に持ち出す。この比較は浦富には當てはまらない。松島はあの通り岸から離れた島々のおもしろさであるのに、私達がこゝに見つけるものはむしろ岸に倚り添ふ島島の眺めであるのだから。こゝでは海岸全體が積み重ね積み重ねした感じをもつて私達に迫つて來る。これはこの附近にかぎらず、やがて山陰道を通じての海岸の特色であらう。松島は松島、浦富は浦富だ。
しかし、何といつてもこゝの東海岸にある洞窟には私も心をひかれた。そこへ行くと、好いとか惡いとかいふやうなところを通り越して、深い自然の力に引きずり込まれてしまふ。龍神洞とは、國府犀東氏がその洞窟の一つのために選んだ名であると聞く。幾つかの洞窟の中で、もつとも深いのもその龍神洞である。
七月の日は海にかゞやいてゐた。私達が乘つて行つた發動機船の後からは、別に一艘の小舟が追つて來たがそれは栗村君の計らひと知れた。やがて小舟は親船の側に繋がれた。私達はその方に移つて、小舟に搖られながら洞窟の前に近づいた。そこは太い石柱を中央にした扉の無い門に似てゐる。何ほどの深さがその奧にあるとは、誰もいふことは出來ないが舟の行けるところまでは、およそ百五十間としてあるといふ。二つの洞門の入口には海水が通じてゐて、その一方から船頭が舟を進めようとした。
「雫だ。雫だ。」
といふ聲が船の中に起つた。見あげるやうに高い岩の上には青草が生茂つてゐてそこから清水が滴り落ちた。濡れないやうにと首をちゞめたものも、皆、入口のところでひやりとさせられた。
同行の岡田君がいふ「秋のやうな涼しさ」はひし/\と私の身にも迫つて來た。その空氣の感じだけでも、私達の氣分を變へさせるに十分だつた。暗い洞窟の内部は岩燕の巣食ふところとかで、無數の翼が兩岸の岩をかすめて飛んだ。
「こんなところがあらうとは、ちよつと思はれないナ。」
「さうだね。一人ではちよつとこゝへ來る氣がしないね。」
私と鷄二とは顏を見合せたくらゐだ。鷄二は美術書生らしく岩壁の色なぞに眼をとめて、そこに白もある、こゝに紫もあると私にいつて見せたが、洞門から射し入る日の光はその邊りに附着する色さま/″\な藻《も》を美しく見せたばかりでなく、水の中に潛む魚の形までもあり/\と照らして見せた。
太古からでも變らずにあるやうな靜かさが、この洞窟の奧を支配してゐた。その時になると、私は自分の側に鷄二のゐることも忘れ、同行の栗村君、岡田君、それから二人の大學生のゐることも忘れ、その兩岸の狹い奧のところで舟をあやつることに心を碎くやうな船頭のゐることも忘れ、全く自然と二人きりであるやうな心地にかへつた。
暗い岩壁の間を通して見ると、青く澄んだ海水は神祕に光つて美しい。しかし、何となく私はこんなところに長くゐられないやうな氣もして來た。早く逃げて歸りたいとさへ思つた。
私達は神祕な海から上つて、現實の濱邊に歸つた。その日はちやうど附近の小學校の先生達の懇親會もあつて、私達の船が西海岸を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る時にはそれらの人達をも一緒に載せて行つたが、中途ですこし風が出て來たのと、船醉するものもあつたのとで、元來た濱邊をさして歸りを急いだのである。
觀潮樓はこの海濱に臨んだ位置にあつた。そこはおもに汽船の乘客と海水浴客のためにあるやうな旅館であつた。栗村君の案内で、三階に上つて見ると、私達はその位置から自分等の乘り捨てて置いて來た船を、自分等の上つて來た岸を、自分等の踏んで來た砂の道を眺めることも出來、かなたには自分等の見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來た海岸の一部をも見渡すことも出來た。小學校の先生達は後※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しにした東海岸の方に心が殘ると見え、風もおだやかになつた頃から更に船をださうとしてゐた。今度は女の先生達まで加はつて、濱邊はにぎやかだ。鷄二は私と一緒に旅館の三階の廊下を歩いて、まだ海水浴には早からうかなどといつてゐたが、やがて廊下にある籐椅子の上に腰をおろして、旅の寫生帳を取り出した。
この海岸へくるまでの私のつもりでは、船で辨當でもつかふぐらゐの簡單なことにして、旅では成るべく土地の人達に心配をかけないやうにと願つてゐたが、來て見ればやはりさうもいかない。正午すこし過ぎたころ、岡田君も一緒で場所柄らしい馳走を受けた。鱸《すゞき》の洗ひ、烏賊の團子、海の素麺など、いづれも栗村君の心づくしだ。
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