を待つた。岩井まで行かうとするには、更に岩美で汽車を降りたところから、二十分ばかりも自動車の便によらねばならない。夏のさかりで日の長い頃だ。ちやうどその汽車を待つてゐると、以前に東京の方で一度逢つたことのある奧田君が私の側へきてあいさつするのに驚かされた。私も奧田君の顏を忘れずにゐた。同君はある醫學專門學校を出た人だが、まだその學校時代に自作の短篇を抱へて私の飯倉の住居へ見えたのは、あれはもう何年前のことか。思ひがけないところで舊知の人に逢つた。聞いて見ると、香住は同君の郷里で、今では小兒科、婦人科の醫者として多くの患者に接しつゝあるといふ。
「かうして田舍に開業してゐますと、いつまたお目にかゝれることやら。かういふ機會は、私にはめつたに來ません。さう思つたものですから、けふはあなたを探しに來ました。」
さういふ奧田君は、しばらく創作の筆もとらないと言つて、汽車の出るまで私の側に立ちつくして、醫專時代の昔をなつかしさうにしてゐた。
城崎の油とうやの若主人はその日一日私達の好い案内者であつた。岩井まで一緒に、とこの人が言つてくれるのを強ひて私達も辭退しかねた。こゝまで案内して來たものだ、案内ついでに、岩井まで見送らうではないかと、若主人はいつて、また一緒に汽車に乘つた。香住から五つ目の驛に岩美の停車場があつて、そこまで乘つてゆくと但馬の國を離れる。縣も鳥取と改まる。岩美から岩井の村までは平坦な道で、自動車に換へてからの乘心地も好かつた。
日の暮れる頃に、岩井に着いた。思つたほどの山の中ではなかつたが、しづかな田舍の街道に沿うたところに、私達の泊つた明石屋の温泉宿があつた。そこは因幡國《いなばのくに》のうちだと思ふだけでも、何となく旅の氣分を改めさせた。湯も熱かつたが、しかし入り心地はわるくなかつた。その晩は夏らしい月もあつて、宿の裏二階の疊の上まで射し入つた。庭にある暗い柿の葉も、ところ/″\月に光つて涼しい。東京の方の留守宅のこともしきりに胸に浮ぶ。鷄二も旅らしく、宿の繪葉書などを取りよせた。
「どれ、楠《くう》ちやんのところへ葉書でも出すかナ。」
「東京へもお前に頼む。」
旅の頼りも鷄二が私に代つて書いた。私はまた宿の主人に所望して、土地での湯かむり歌といふものを聽かせてもらつた。いつの頃からのならはしか、土地の人達は柄杓《ひしやく》ですくふ湯を頭に浴びながら歌ふ。うたの拍子は湯をうつ柄杓の音から起る。きぬたでも聽くやうで、野趣があつた。この湯かむり歌もたしかに馳走の一つであつた。山間とはいひながら、かうした宿でも蚊帳を吊つたので、その晩は遲くなつてから鷄二と二人蚊帳のなかに枕を並べて寢た。
五 浦富海岸
浦富《うらどめ》の海岸に出た。
七月の十日は早く岩井の宿を發《た》つて來て、浦富海岸で時を送ることにした。浦富の栗村君は始めて逢つた人だが、前の晩にわざ/\岩井の宿まで見えて、海岸の好いことを話されるので、私もその方に心が動いたのである。
浦富は、桐山城址のある四百戸ばかりの町で、山陰線の岩美驛から海の方へ寄つたところにある。山陰方面には海水浴場の地としても知られてゐる。驛から乘合自動車の便もある。栗村君はそこの町長で、私達のために船を出す用意までして待ちうけてゐてくれた。私としては、既に瀬戸や香住の山の上から望んで來た日本海の方へもつと近く出ていつて見るといふ樂しみがあり、この附近の海岸を船で見て囘るといふ樂しみがあつた。長いこと東京麻布の町の中に暮しつゞけて來た私は、自分の都會生活が自然に遠ければ遠いほど、餘計に海邊の空氣と日光と潮風とをこひしく思つた。それほど私は海にも餓ゑてゐた。
發動機船の用意が出來た。私達は栗村君のほかに、鳥取から見えた岡田君とも一緒になつた。この岡田君には、土地を案内してもらへといつて、大阪を出る時に紹介の名刺をもらつて來た人だ。鳥取までゆかないうちに、私達は岡田君を見ることが出來たわけだ。その日は二人の大學生とも一緒であつた。一人は栗村君の子息さんで、一人はその學友であるといふ。年若で支度ざかりの好い青年達だ。やがて一同船に乘らうとして海邊にある黄ばんだ砂を踏んでいつた。その邊には鰯網などが干してあつた。渚《なぎさ》のさまも、湘南地方あたりに思ひ比べると、餘程變つて見える。こゝには、自然の胸の鼓動を聞くやうな大きな波の音が、間を置いては響けてくるといふ風でない。今はこの海岸の夏らしい時だ。青い海を渡つて來る南風が私達の顏を撫でて通るやうな時だ。全く靜かだ。私達は岸近くあらはれてゐる岩石の間をつたつて順に一人づつ船に移つた。
栗村君は、曾つて詩人|國府犀東《こくぶさいとう》氏をこの浦富に迎へ地質に精しいなにがし大學の教授をも迎へた時のことを私に話し、この附近に多い
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