降りて來た石段、それから石垣の前の果樹や野菜の畑の見えるところで、やゝしばらく自動車のくるのを待つた。そこいらには村の子供達が集まつて來て、私達の周圍で遊び戲れてゐた。
「御覽。あの應擧の描いた子供は、何となくこの邊の子供に似てるぢやないか。」
といつて私は鷄二を笑はせた。濃い眉、廣い眉間《みけん》、やゝあがり氣味の眼尻、それから豐かな頬――私がそこいらに近く見つける小娘などの面ざしは、やがてあの芭蕉の間で、應擧の畫に見つけたと似通ふもののやうでもある。これは藝術が私達の上に働きかける力か。私は應擧の眼を通して、いつの間にかその邊に遊んでゐる村の子供までも見ようとするやうになつたのか。あのイタリーを旅するものには、ゆく先にラフアエルのマドンナを見つけるといふやうに、ちやうど私はそれに似たものであつたかも知れない。いづれにしても、私は應擧の作品と、彼に縁故の深かつたといふこの邊りの環境とを結びつけて、何となくその關係を讀み得たやうに思つた。同行の伊藤君は、この邊の海岸に多い岩や松が應擧の筆そのまゝであることを私に話しきかせてくれたが、この人の眼もまた、應擧が見たやうにしかこのあたりの自然を見ることが出來なくなつたのかも知れない。話し好きな伊藤君に比べると、同君の連れはまた正反對な沈默家だつた。その人は私達と一緒に香住の停車場を乘つてくる時から、自動車で別れるまで、ほとんど默りつゞけてゐた。
四 山陰道の夏
東海道あたりの海岸に比べると、この山陰道はおもしろい對照を見せてゐる。こゝには全く正反對のものを見出す。一方に遠淺な砂濱があれば、こゝには切り立つたやうな岩壁がある。一方に高い土用波の立つ頃は、こゝには海の凪《なぎ》の頃である。一方に自然の活動してゐる時は、こゝには自然の休息してゐる季節である。
偶然にも、私達はその自然の休息してゐる夏の季節を選んで、山陰道の海岸に多い「もち」の樹の葉蔭を樂しみに來たわけだ。土の色の赤いといふことが、全體の基調を成してゐるといつてもいゝほどで、ゆく先の漁村の屋根にすら山陰名物の赤瓦が見られるのもこゝだ。夏の誇りを見せたやうな柘榴《ざくろ》や、ほのかな合歡《ねむ》の木の花なぞがさいてゐて、旅するものの心をそゝるのもこゝだ。岩には燕が飛びかひ、崖には松の林が生ひ茂つてゐて、その深いところには今でもまだ鹿が住んでゐるといはれるのもこゝだ。磯釣の船を浮べて、岸近く寄つてくる黒鯛を突き刺す光景なぞも、こゝではさうめづらしくない。
私達はあの瀬戸の日和山《ひよりやま》で望んで來た日本海を、城崎から香住までの汽車の窓からも望み、香住では岡見公園といふ眺望のある位置からも望んで見た。大乘寺から程遠からぬところにその小さな岡見公園があつた。そこはまだ公園としての設計も十分に出來てゐないやうな小高い山の上にあつた。私も前途の疲勞を恐れて、そこまではと辭退して見たが、大乘寺へ同行した伊藤君にそゝのかされて、また勇氣を起して坂道を登つた。松林の間を分け行つたところに、「かつたい落し」と名のついた高い崖も見える。信州あたりに姨捨山《をばすてやま》といふと似てゐる。往昔、癩の患者が衆人に忌み嫌はれその崖の上から深い海へ突き落されたのだとは、昔話にしても恐ろしい。山の上には共同の腰かけも置いてあつた。伊藤君のはからひで、近くの茶屋からはサイダーなぞをそこへ運んで來てくれた。城崎の油《ゆ》とうやの若主人はそこまでも私達を案内して來て、一緒に腰かけて休んだ。
海はよく見えた。私は山陰道の自然を、大體に自分の胸に浮べることも出來るやうになつた。旅に來た私に取つては、それをつかむことが肝要でもあつたのである。言つて見れば、この海岸に連なり續く岩壁は、大陸に面して立つ一大城廓に似てゐる。五ヶ月もの長さにわたるといふ冬季の日本海の猛烈な活動から、その深い風雪と荒れ狂ふ怒濤とから、われわれの島國をよく守るやうな位置にあるのも、この海岸の岩壁である。腰骨の根強さである。おそらく山陰道は、その地勢からいつても、東海道ほどに惠まれてゐないかも知れない。山陽道にもおよばないかも知れない。そのかはりこゝには他に見られない自然の特色があり、到るところに湧き出づる温泉があり、金、銀、鐵、石炭その他の鑛物を産する無盡藏の寶庫もある。折よく私達は日本海の靜かな時に來た。この自然が休息してゐる間に旅をつゞけなければならない。
豐岡川に、瀬戸に、大乘寺に、それから岡見公園に、その日は私もかなり疲れた。伴れの鷄二は、と見ると、あまり疲れたらしい樣子も見えなかつたが、城崎で聞いて來た岩井の宿へその日のうちに着いて、河鹿の鳴く聲が聞えるといふやうな山間の温泉宿で互の靴のひもを解きたいと思つた。
香住の停車場で、私達は岩美《いはみ》行の汽車
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