食事後に、栗村君はすゞりと筆と白扇とを取りよせ、その日の記念にと私に揮毫を求められた。つたない筆の跡を臆面もなく殘して行くやうで、私も心苦しかつたが、強ひて辭退するのもどうかと思つて、求めらるゝまゝに白扇をひろげて見た。その時、旅のかばんの中に白の畫箋紙の片のいれてあつたことを思ひだした。それは鷄二が鉛筆ばかりでなしに、筆と墨で寫生を試みたい場合もあらうかといつて東京から持つて來たものだ。私は書きにくい白扇よりも、その紙片の方を選んで、日頃好きな芭蕉の言葉の中から一つ二つを書いて贈ることにした。
「余が風雅は夏爐冬扇のごとし、衆に逆《さか》ひて用ふるところなし。」
 熱い汗は私の顏に流れた。
 栗村君は今の町長をつとめる前に水産學校の校長として教育事業にたづさはつた時代もあつたと聞く。私は始めてこの人に逢つた時から、眉の長く眼もとの涼しい容貌に心をひかれ、その毅然たる態度にも心をひかれたが、だん/\話してゐるうちに、この町長が學問のある譯もわかつた。同君には七人もの子があることをも知つた。學生が法廷に立つといふ今の時代に、一人の子息さんを大學の法文科に學ばせ、他の子息さん達を高等學校その他に送つてゐる同君が、親としての心づかひも一通りでないといふ話も出た。
「何といつても、親の力のおよぶのは十臺までですね。人の一生は幼年期、少年期で決するやうなものですね。」
 私は栗村君とこんなことを語り合つた。
 いつの間にか鷄二は見えなかつた。水泳好きな彼は人氣のない海水浴場の方へ駈けだして行つたが、やゝしばらくして海から引返して來た。
「まだ水の中は冷たいね。」
 と私にいつて見せた。
 思はず私達は時を送つた。鳥取まで同行しようといつてくれる岡田君にうながされて、やがて浦富を辭したのは午後の四時近い頃であつた。夕立でも來さうな空模樣で、ひどく蒸暑い空氣の中をまた私達は山陰線の汽車に搖られて行つた。その晩は鳥取の小錢屋《こぜにや》といふ宿に泊る。

    六 鳥取の二日

「茄子に、ごんぼは、いらんかな。」
 私達はこんな物賣りの聲の聞えるやうな、古風な宿屋の二階に來てゐた。この山陰の旅に來て見て、一圓均一の自動車が行く先に私達を待つてるにはまづ驚かされる。あれの流行して來たのは東京あたりでもまだ昨日のことのやうにしか思はれないのに、今日はもうこんな勢で山陰地方にまでゆきわたつた。人力車の時代は既に過ぎて、全國的な自動車の流行がそれに變りつゝある。こんな餘事までも考へながら、前の日に一臺の自動車で鳥取の停車場前から乘つて來た私達はその車に旅の手荷物を積み、浦富からずつと一緒の岡田君とも同乘で、山陰道でも屈指な都會の町の中へはじめて來て見る思ひをした。私達は右を見、左を見して、自動車で袋川を渡つて來た。まだ流行の全集本が地方の豫約募集を終りきらないころで、祭禮のやうに紅い旗が往來の人の眼をひいてゐた。私達はかごをかついで通る魚賣りなぞの眼につくやうな、町の空氣の濃いところへ來て、古めかしい石の門のある宿屋の前で車から降りたが、そこが岡田君の案内してくれた小錢屋であつた。
 七月の十一日は、私はすこし腹具合を惡くしてゐたので、旅疲れのしたからだを一日休めることにした。ちやうど私達は宿で赤兒の生れたところへ泊り合せて、ほとんど自分等二人きりで風通しのよい二階の座敷を占領したやうな形であつた。客もすくない二階の表廊下へ出ると、めづらしい實を結んだ棕梠の庭樹の間から、鳥取の町の空が見えた。今をさかりと咲き誇る夾竹桃《けふちくたう》の花の梢も夏らしいやうな裏の廊下の方へも行つて見た。きのふは町の屋根の上に晝の花火を望んだのもそこだ。遠くの寺からでもひゞいてくるやうな靜かな鐘の音を聞きつけたのもそこだ。宿の女中に頼んで置いた按摩も來てくれたので、午前のうちに私はすこし横になつて寢ながら土地の話を聞いた。こゝには腸のさはりを調《とゝの》へるに好い藥草もあると聞いて、試みにそのせんじ藥なぞを取りよせて飮んだ。
 連れの鷄二はぢつとしてゐなかつた。午前のうちには古い城址の方まで歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りに行つたといつて汗をふき/\歸つて來た。午後からはまた宿へ訪ねてくれた岡田君と連立つて、この地方の海岸に名高い砂丘の方へと出かけた。私一人になると、一層二階は靜かだ。私はさびしく樂しい旅の晝寢に、大阪の扇を取り出して見、豐岡川の方で見て來た青い蘆、瀬戸の日和山での歸りがけに思ひがけなく自分の足許へ飛び出した青蛙のことを思ひ出して見て、そんな眼に殘る印象にも、半日の徒然《つれ/″\》を慰めようとした。ちやうど宿の老人がこの私の側へ來て、その日は初孫の顏を見てから三日目にあたるといつて、生れた男の子のために名をつけることを私に頼むといふ。
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