光寺よりも纏まつてゐるやうに見えますが――。」
と大谷君はいひ添へたが、私にはどつちも好かつた。どつちの庭が姉で、どつちが妹であるとさへもいへなかつた。醫光寺を見た眼で萬福寺の庭を見ると、あの長く垂れさがつた古い櫻の枝のかはりに、こゝには岩の間から身を起した大きな蘇鐵がある。一方の庭に白く咲き殘つてゐた山梔《くちなし》のかはりに、こゝには腹這つてゐる磯馴《そなれ》の松がある。かすかに鯉の動くのが見えるほど薄濁りのした水のかはりに、こゝには青い蓮の葉で滿たされた池がある。どつしりとした古風な石燈籠が一つこの池の水に臨んで、その邊には圓く厚ぽつたい「つはぶき」も多く集めてあつた。前手の汀《みぎは》のところに見える藺《ゐ》、あやめなぞの感じもよい。仲のいゝ友達のやうな蓮の葉が物をいつてゐる側には、河骨《かうほね》も夢を見てゐた。
その時になると、私もわざ/\この山陰の西まで旅して來た甲斐があつたと思つた。松江を終りとして東京の方へ引返したら、こんなところに昔の人の深い心の殘つてゐることも知らず、このよい庭も見落して行くところであつたと思つた。私は住職がそこへ取出して來た記念帖のはしに、僅かばかりの言葉を書きつけた。
「古大家の意匠になりし庭園を前にして、しばらく旅の時を送る。昭和二年、七月十九日記念。」
かうして萬福寺を辭した。私達は寺の門前に近い新橋の畔に出て、そこの柳のかげに吉田行の自動車を待つた。益田川の河岸に藺草の並べて乾してあるのも眼についた。醫光寺境内の山の上から望んで來た領巾振山はその橋のほとりからも見えた。
その時になると、又、私は日ごろの自分の考へ方を改めなければならないやうなものが、こゝにも一つあつたことを思つた。どうも雪舟の[#「雪舟の」は底本では「雲舟の」]藝術は親しみにくいと考へたやうな、その多年の疑問は、今度の旅で見事に覆へされた。やはり、來て見て動かされた。
石見《いはみ》といふ名が示してゐるやうに、いはばこゝは石の國である。古い時代の岩石の崇拜は、この地方に限つたことでもなく、伊豆あたりの神社にもそれを見つけるといふが、益田にある天《あま》の石勝《いはかつ》神社といふやうな古祠そのものがすでに、この地方のことを語つてゐるやうにも見える。雪舟の藝術に感ずるやうな石の美は、東洋的ではあつても、必ずしもそれが支那的であるとはいひきれない
前へ
次へ
全55ページ中50ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング