やうな氣もして來た。私はこの石の國に來て、何となくそれらの關係を讀み得るやうに思つた。その人の愛した自然を拔きにして、製作のみを單純にいつて見ることの危いのをも感じた。
 吉田の大喜庵は、萬福寺から半道ばかりも離れて、高津《たかつ》の濱を望むことの出來るやうな小高い山の上の位置にある。そこには雪舟の古い墓もあつた。故人が隱棲の跡には見晴らしのよい新築の寺が建てられて、そこでも茶の馳走なぞになつた。男のさかりを思はせる年ごろの人が今の住職をしてゐて、晩年の雪舟が餘生を終つたやうな地點から更に出發しようとしてゐることも頼母しい。私達は寺の縁先に腰掛けさせて貰つてそこでもまたしばらく旅の時を送つた。青田を渡つて來る風もすゞしかつた。

    十五 高角山

 高津の町にある高角山《たかつのやま》は、石見の旅に來て、柿本人麿の昔を偲ばうとするものに取り唯一の記念の場所である。高津は益田から一里ばかりしか離れてゐない。益田から吉田まで行けば、それから先には高津行の自動車があつて、高角山のすぐ下にまで出られる。私達が吉田の大喜庵を訪ねた足で、この山に登つたのは、同じ日の午前のうちであつた。
 人麿に行かうとするには、萬葉集を開いて見るに越したことはない。萬葉集こそ人麿の遺蹟である。同じ石見にある昔の人の跡とは言つても、畫僧としての雪舟と、歌人としての人麿とでは、遺したものが違ふ。したがつて訪ねて行く私達の氣持も、おのづから異なるわけである。私達はあの萬葉集の中に出てゐる石川(即ち高津川)を眺望の好い位置から望んで見たらばと思ひ、人麿終焉の地として古歌にも殘つてゐる鴨山が今でも變らずにあるかと思つて、それを見て行くといふだけでも、滿足しようとした。
 千二三百年の長い年月が、全くこの邊の地勢を變へたといふはありさうなことだ。私達は既に益田の方で萬壽年中の大海嘯《おほつなみ》のことを聞き、あの萬福寺の前身にあたるといふ天台宗の巨刹安福寺すら、堂宇のすべてが流失したことを聞いて來た。益田から見ると、一里も海岸の方へ寄つて、高津川の河口に近いこの地方が、どんな大きな災害を受けたかは想像するに難くない。内濱外濱の數千の民家は皆跡かたもなくなつて、廣い入海も砂土に埋沒し、地形は全く變つてしまつたといはれてゐる。高角山にある柿本神社の境内は人麿が墳墓の地ではないまでも、古くからその靈が祭ら
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