も開けて、今ではコンクリートの新しい大鳥居まで立つやうになつた。おそらく、讓りに讓ることを徳とせらるゝほどの神は、一切に逆らはず、多くの不調和をも容れて、移り行く世相に對せらるゝことであらう。
 大社の主典島君に導かれてあちこちと見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた後、私達は千家邸《せんけてい》で早い晝食の饗應を受けた。古い歴史のある家族がそこに住んでゐた。三朝《みさゝ》温泉の方に病を養つてゐるといふ人の噂も聞いた。不昧公の意匠になると聞く古い庭園は私達が杵築に來て見た最も靜かな場所であつた。そこでも記念にと、揮毫を求められたが、兎角旅の心は落ちつかないで、自分ながら恥かしいものを書きちらした。家扶の星野君といふ人が來て、これは誰とやらの短册、これは誰とやらの色紙、これは誰とやらの書畫帖なぞとうや/\しくそこへ取り出されたのにも恐縮した。時と場合が許して、もつとゆつくりその庭園を眺めることが出來たら、見つけるものも多かつたらうに。惜しい。
 汽車の時間が迫つたことを知らされて、私達はあわたゞしく千家邸を辭した。杵築まで同行した小山君にも別れ、今市から更に西の方へ向つた。出雲地方を去るにつけても、米子の町を見落して來たことは殘念であつた。松江の太田君が勸めてくれた熊野神社まで行けなかつたことも、あの古代の出雲地方と離しては考へられないやうな素盞男命《すさのをのみこと》を記念する熊野村まで行けなかつたことも殘念であつた。
 今市から西の海岸の眺めは、これまで私達が見て來た地方と大差がない。出雲浦ほどの變化はないまでもおほよそその延長と見ていゝ。次第に私達は海岸に向いた方の汽車の窓を離れて、山の見える窓の方に腰掛けるやうになつた。大田[#「大田」は底本では「太田」]、江津、濱田、私達は山陰西部にある町々を行く先で窓の外に迎へたり送つたりした。やがて五時間ばかりもかゝつて、石見の益田まで乘つて行つた。

    十四 雪舟の遺蹟

 旅の鞄に入れて來た案内記は、山陰線全通以前のもので、山陰線の西部のことはあまり出てゐない。石見にある雪舟の遺蹟も傳へてない。左にしるす三つの寺は、いずれも雪舟の晩年に縁故の深かつたところである。
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醫光寺《いくわうじ》。
萬福寺《まんぷくじ》。
大喜庵《だいきあん》。
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 このうち、醫
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