分の記憶をたどると、俗にいふ大黒さまとお夷《えびす》さまとが私の生れた木曾の山家などにも飾つてあつたのを覺えてゐる。幼い時分の私の眼には、俵をふまへた大黒さまと釣竿をかついだお夷さまの姿が映るのみで、その俵が何を意味し、その釣竿が何を意味するかをも知らなかつた。あの大國主の神が農業の祖神であり、事代主《ことしろぬし》の神が漁業の祖神であることが分つて見ると、俵をふまへ釣竿をかついだ、父子二神の姿も讀めて來る。私はこの出雲地方を旅して見て、豐かな頬と、廣い眉間と、濃い眉とを行く先に見つけた。あの夷大黒としてよくある彫刻などに見る神の顏の特徴は、やがてそれが純粹な出雲民族[#「民族」は底本では「民旅」]の特徴であることを知つた。
「笑」をあらはした神像といふやうなものが他にもあるかどうか、私はよく知らない。すくなくも大黒さまとお夷さまとにはそれがあらはしてある。何といふ平易で通俗な神像だらう。何といふ親しみ易い笑顏だらう。人も知るごとく、信濃にある諏訪神社の祭神|建御名方《たけみなかた》の神は、事代主の神と共に、大國主の神の子であつて、國讓りの當時信濃の方に亡命せられたのである。事代主の神は父大國主の神の和魂《にぎたま》をうけつぎ、建御名方の神は同じ父神の荒魂《あらたま》をうけついだといはれてゐる。當時の出雲民族は古代文化の中堅の一つであつて、その勢力は南は紀伊に及び、中央から北は越後信濃にまで及んでゐたといふくらゐだ。剛健勇邁な建御名方の神が亡命の心事は今からでもそれを想像するに難くない。それに比べると、大國主の神はどこまでも平和の神であり、當時の平和論者なる事代主の神の意見を容《い》れて、國讓りの難局に處せられたのであらう。退いて民に稼穡《かしよく》の道を教へたといはれる神が、高くも遠くも見たであらうことは、それもまた想像するに難くないやうな氣がする。私はよく信濃の方へ旅して、諏訪湖のほとりを通る度にあの建御名方の神を祭るといふ古い神社の境内を訪れたこともあるが、鬱然として氣象の近づき難さが身に迫るのを覺えた。今、この出雲大社に來て見ると、こゝにはそれほど深く沈んだものはない。こゝに祭られてある大國主の神は昔ながらの笑顏をもつて、多くの參詣者の頭を子供のやうに撫で、お伽話でもして聞かせてゐるやうに見える。海岸に近い神社の境内には、松の枝が汐風に吹きたわめられ、あたり
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