光寺と萬福寺とは雪舟の意匠になつた古い庭園で知られ、大喜庵はその終焉の地として知られてゐる。位置からいへば醫光寺と萬福寺とは益田の町にあり、大喜庵は益田に接近した吉田村の方にある。雪舟の遺蹟を探らうとするものは、先づ山陰線の益田驛で下車するのを便利とする。
 中世紀の僧侶でもあり、名高い畫家でもあつた雪舟は出世修養期を周防《すはう》の雲谷庵《うんこくあん》に、明《みん》より歸朝後の活動期を豐後《ぶんご》(?)の天開樓に送つた後、石見に來てその最後の老熟期に達したといはれてゐる。この雪舟は、しばらく益田の萬福寺に留錫《るしやく》し、醫光寺に移り住み、吉田の大喜庵にその餘生を終つたらしい。あゝいふ昔の人が最後の栖家《すみか》を求めて石見地方の寺にそれを見つけたといふのは、その事がすでになつかしい。ましてそこは高津川《たかつがは》に近く、私達に取つて忘れることの出來ない萬葉の歌人柿本人麿の生涯に(その少年期にも、國守としての中年期にも、また晩年にも)縁故の深かつたところで、遠い萬葉の昔を忍ばせるやうな土地柄でもあるのだから。
 かうした遺蹟も訪ねて見たく、山陰の西とはまたどんなところかと思つて、私達も暑さを厭はず旅をつゞけて來た。益田までの途中、細い藺草《ゐぐさ》を刈り乾した畠なぞを汽車の窓から見て來ることすら、私達にはめづらしかつたのである。こゝはいはゆる石見表《いはみおもて》の産地であるのだ。益田の宿について、町を貫く益田川の流れに臨んだ裏二階に足を休めた時は、兎にも角にも石見の空の見えるところまで無事にやつて來たことを思つた。松江の宿の方では、朝に晩に移り動く水の光を見て來た後であつたから、ちやうど私達は湖水の眺望のある南向きの部屋から、岡の見える北向きの部屋にでも移つて來たやうに感じた。何となく旅の心も落ちついた。
 土地の人達は、よくそれでもこんな遠いところまで訪ねて來たといつて、私達親子の着いたのをよろこび迎へてくれた。益田の驛長龜井君、町長田中君、いづれも私には初對面の人達ばかりだ。私はこゝで、故島村抱月君の從兄弟《いとこ》にあたるといふ人にも逢つた。私はまた大谷君のやうな思ひがけない知己がこの土地にあることを知つた。
「益田までお出掛けはあるまいと思つてゐましたよ。」
 さう大谷君はいつて、出來るだけの案内をしようと約束してくれた。
 土地の人達の心づくし
前へ 次へ
全55ページ中46ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング