掬《とつか》の劒を拔いて逆さまに刺し立て、その劒の前に趺坐《あぐら》をかいて、國讓りの談判を迫られたといふ時、大國主の神がひそかに使者を小舟に乘せて助言を求めたのも、美保にある事代主の神の許であつたといひ傳へられてゐる。私達はこの劇的光景を遠く想像させるやうな小舟の前で、しばらく旅の時を送つた。
 名高い五本松のある山は、美保神社からいくらも離れてゐない。青く深い海水に臨んで、軒を列ねた水樓の屋根が、その傾斜の位置から眼の下に見おろされる。港に浮かぶ船舶のさまも、明るい繪のやうに美しい。おそらく美保の町長が私達に見せたかつたのは、故大町桂月君が「大天橋」と呼んだといふ夜見《よみ》ヶ濱から遠く伯耆の大山へかけての眺望であつたらうが、私はむしろその傾斜から見おろした美保の關の港の眺めを取る。昔は航海者の標的であつたといふ五本松のふもとには、一軒の休茶屋もあつた。そこで味はふ茶もうまかつた。晝食の時刻には、私達は山から下りて、春畝《しゆんぽ》山人の額などの掛つた美保館の座敷で、先づ汗をふいた。

    十 出雲浦海岸

 同じ日の午後。
 境の港から私達を乘せて來た岡田丸は、美保の關での荷積みその他を終つて、棧橋のところに私達を待つてゐた。
 出雲浦の海岸を見ないでは、山陰道の海岸を見たとはいへないとは、故大町桂月君の言葉であるとか。大町君はこの地方の中學に教鞭を執つた時代があつて、そんな關係から、山陰方面には同君の足跡の至らないところはないといはれたほどの旅行家だ。この山陰通の殘した言葉を聞いたばかりでも、私の心は動いてゐたのに、松江の太田君からも出雲浦海岸のいゝことを聞いて來た。私達は今、岡田汽船會社の渡邊君等の厚意から、その出雲浦に出て、外海の方から、島根半島を一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして見るやうな機會に接したのである。
 岡田丸は境、江角《えすみ》間を隔日に往復する定期船であるが、同時に觀覽船を兼ねた形で、乘り心地もよかつた。私達は船長室に近い舳の方の甲板の上に陣取つたが、一行の五六人のものの中には松江からの古川君、境からの渡邊君の外に、美保の野村君もまた一緒で、境から乘つた時と殆ど同じ顏觸れであつた。船が棧橋を離れて、その靜止した位置から美保の關の港を後方に動き出して行くと、樂しい波の動搖が私達のからだにまで傳はつて來た。私達は船體の底の
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