《しこん》の色のやきがねを
高くも叩《たた》く響あり
狂へば長き鬣《たてがみ》の
うちふりうちふる乱れ髪
燃えてはめぐる血の潮《しほ》の
流れて踴《をど》る春の海
噴《は》く紅《くれなゐ》の光には
火炎《ほのほ》の気息《いき》もあらだちて
深くも遠き嘶声《いななき》は
大神《おほがみ》の住む梁《うつばり》の
塵《ちり》を動かす力あり
あゝ朝鳥《あさとり》の音をきゝて
富士の高根の雪に鳴き
夕つげわたる鳥の音に
木曽の御嶽《みたけ》の巌《いは》を越え
かの青雲《あをぐも》に嘶《いなな》きて
天《そら》より天《そら》の電影《いなづま》の
光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら
なさけもあつくなつかしき
主人《あるじ》のあとをとめくれば
箱根も遠し三井寺や
日も暖《あたたか》に花深く
さゝなみ青き湖の
岸の此彼《こちごち》草を行く
天の雄馬のすがたをば
誰かは思ひ誰か知る
しらずや人の天雲《あまぐも》に
歩むためしはあるものを
天馬の下《お》りて大土《おほつち》に
歩むためしのなからめや
見よ藤の葉の影深く
岸の若草|香《か》にいでて
春花に酔ふ蝶《ちょう》の夢
そのかげを履《ふ》む雄馬には
一つの紅《あか》き春花《はるはな》に
見えざる神の宿《やどり》あり
一つうつろふ野の色に
つきせぬ天のうれひあり
嗚呼|鷲鷹《わしたか》の飛ぶ道に
高く懸《かか》れる大空の
無限《むげん》の絃《つる》に触れて鳴り
男神《をがみ》女神《めがみ》に戯《たはむ》れて
照る日の影の雲に鳴き
空に流るゝ満潮《みちしほ》を
飲みつくすとも渇《かわ》くべき
天馬よ汝《なれ》が身を持ちて
鳥のきて啼《な》く鳰《にほ》の海
花橘《はなたちばな》の蔭を履《ふ》む
その姿こそ雄々しけれ
牝馬《めうま》
青波《あをなみ》深きみづうみの
岸のほとりに生れてし
天の牝馬は東《あづま》なる
かの陸奥《みちのく》の野に住めり
霞に霑《うるほ》ひ風に擦《す》れ
音《おと》もわびしき枯くさの
すゝき尾花にまねかれて
荒野《あれの》に嘆く牝馬かな
誰か燕《つばめ》の声を聞き
たのしきうたを耳にして
日も暖かに花深き
西も空をば慕はざる
誰か秋鳴くかりがねの
かなしき歌に耳たてて
ふるさとさむき遠天《とほぞら》の
雲の行衛《ゆくへ》を慕はざる
白き羚羊《ひつじ》に見まほしく
透《す》きては深く柔軟《やはらか》き
眼《まなこ》の色のうるほひは
吾《わ》が古里《ふるさと》を忍べばか
蹄《ひづめ》も薄く肩|痩《や》せて
四つの脚《あし》さへ細りゆき
その鬣《たてがみ》の艶《つや》なきは
荒野《あれの》の空に嘆けばか
春は名取《なとり》の若草や
病める力に石を引き
夏は国分《こくぶ》の嶺《みね》を越え
牝馬にあまる塩を負ふ
秋は広瀬の川添《かはぞひ》の
紅葉《もみぢ》の蔭にむちうたれ
冬は野末に日も暮れて
みぞれの道の泥に饑《う》ゆ
鶴よみそらの雲に飽き
朝の霞の香に酔ひて
春の光の空を飛ぶ
羽翼《つばさ》の色の嫉《ねた》きかな
獅子《しし》よさみしき野に隠れ
道なき森に驚きて
あけぼの露にふみ迷ふ
鋭き爪のこひしやな
鹿よ秋山《あきやま》妻恋《つまごひ》に
黄葉《もみぢ》のかげを踏みわけて
谷間の水に喘《あへ》ぎよる
眼睛《ひとみ》の色のやさしやな
人をつめたくあぢきなく
思ひとりしは幾歳《いくとせ》か
命を薄くあさましく
思ひ初《そ》めしは身を責むる
強き軛《くびき》に嘆き侘《わ》び
花に涙をそゝぐより
悲しいかなや春の野に
湧《わ》ける泉を飲み干すも
天の牝馬のかぎりなき
渇ける口をなにかせむ
悲しいかなや行く水の
岸の柳の樹の蔭の
かの新草《にひぐさ》の多くとも
饑ゑたる喉《のど》をいかにせむ
身は塵埃《ちりひぢ》の八重葎《やへむぐら》
しげれる宿にうまるれど
かなしや地《つち》の青草は
その慰藉《なぐさめ》にあらじかし
あゝ天雲《あまぐも》や天雲や
塵《ちり》の是世《このよ》にこれやこの
轡《くつわ》も折れよ世も捨てよ
狂ひもいでよ軛《くびき》さへ
噛み砕けとぞ祈るなる
牝馬のこゝろ哀《あはれ》なり
尽きせぬ草のありといふ
天つみそらの慕はしや
渇かぬ水の湧くといふ
天の泉のなつかしや
せまき厩《うまや》を捨てはてて
空を行くべき馬の身の
心ばかりははやれども
病みては零《お》つる泪《なみだ》のみ
草に生れて草に泣く
姿やさしき天の馬
うき世のものにことならで
消ゆる命のもろきかな
散りてはかなき柳葉《やなぎは》の
そのすがたにも似たりけり
波に消え行く淡雪《あはゆき》の
そのすがたにも似たりけり
げに世の常の馬ならば
かくばかりなる悲嘆《かなしみ》に
身の苦悶《わづらひ》を恨《うら》み侘び
声ふりあげて嘶《いなな》かん
乱れて長き鬣の
この世かの世の別れにも
心ばかり
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