重かきわけて行くごとく
野の鳥ぞ啼《な》く東路《あづまぢ》の
碓氷《うすひ》の山にのぼりゆき

日は照らせども影ぞなき
吾妻《あがつま》はやとこひなきて
熱き涙をそゝぎてし
尊《みこと》の夢は跡も無し

大和《やまと》の国の高市《たかいち》の
雷山《いかづちやま》に御幸《みゆき》して
天雲《あまぐも》のへにいほりせる
御輦《くるま》のひゞき今いづこ

目をめぐらせばさゞ波や
志賀の都は荒れにしと
むかしを思ふ歌人《うたひと》の
澄める怨《うらみ》をなにかせん

春は霞《かす》める高台《たかどの》に
のぼりて見ればけぶり立つ
民のかまどのながめさへ
消えてあとなき雲に入る

冬はしぐるゝ九重《ここのへ》の
大宮内のともしびや
さむさは雪に凍る夜の
竜《たつ》のころもはいろもなし

むかしは遠き船いくさ
人の血潮《ちしほ》の流るとも
今はむなしきわだつみの
まん/\としてきはみなし

むかしはひろき関が原
つるぎに夢を争へど
今は寂《さび》しき草のみぞ
ばう/\としてはてもなき

われ今《いま》秋の野にいでて
奥山《おくやま》高くのぼり行き
都のかたを眺むれば
あゝあゝ熱きなみだかな

  白壁《しらかべ》

たれかしるらん花ちかき
高楼《たかどの》われはのぼりゆき
みだれて熱きくるしみを
うつしいでけり白壁に

唾《つば》にしるせし文字なれば
ひとしれずこそ乾きけれ
あゝあゝ白き白壁に
わがうれひありなみだあり

  四つの袖《そで》

をとこの気息《いき》のやはらかき
お夏の髪にかゝるとき
をとこの早きためいきの
霰《あられ》のごとくはしるとき

をとこの熱き手の掌《ひら》の
お夏の手にも触るゝとき
をとこの涙ながれいで
お夏の袖にかゝるとき

をとこの黒き目のいろの
お夏の胸に映るとき
をとこの紅《あか》き口唇《くちびる》の
お夏の口にもゆるとき

人こそしらね嗚呼《ああ》恋の
ふたりの身より流れいで
げにこがるれど慕へども
やむときもなき清十郎

  天馬

   序

老《おい》は若《わかき》は越《こ》しかたに
文《ふみ》に照らせどまれらなる
奇《く》しきためしは箱根山
弥生《やよひ》の末のゆふまぐれ
南の天《あま》の戸《と》をいでて
よな/\北の宿に行く
血の深紅《くれなゐ》の星の影
かたくななりし男さへ
星の光を眼に見ては
身にふりかゝる凶禍《まがごと》の
天の兆《しるし》とうたがへり
総鳴《そうなき》に鳴く鶯《うぐひす》の
にほひいでたる声をあげ
さへづり狂ふ音《ね》をきけば
げにめづらしき春の歌
春を得知らぬ処女《をとめ》さへ
かのうぐひすのひとこゑに
枕の紙のしめりきて
人なつかしきおもひあり
まだ時ならぬ白百合の
籬《まがき》の陰にさける見て
九十九《つくも》の翁《おきな》うつし世の
こゝろの慾の夢を恋ひ
音《ね》をだにきかぬ雛鶴《ひなづる》の
軒《のき》の榎樹《えのき》に来て鳴けば
寝覚《ねざめ》の老嫗《おうな》後の世の
花の台《うてな》に泣きまどふ
空にかゝれる星のいろ
春さきかへる夏花《なつはな》や
是《これ》わざはひにあらずして
よしや兆《しるし》といへるあり
なにを酔ひ鳴く春鳥《はるどり》よ
なにを告げくる鶴の声
それ鳥の音《ね》に卜《うらな》ひて
よろこびありと祝ふあり
高き聖《ひじり》のこの村に
声をあげさせたまふらん
世を傾けむ麗人《よきひと》の
茂れる賤《しづ》の春草《はるぐさ》に
いでたまふかとのゝしれど
誰かしるらん新星《にひぼし》の
まことの北をさししめし
さみしき蘆《あし》の湖《みづうみ》の
沈める水に映《う》つるとき
名もなき賤の片びさし
春の夜風の音を絶え
村の南のかたほとり
その夜生れし牝《め》の馬は
流るゝ水の藍染《あゐぞめ》の
青毛《あをげ》やさしき姿なり
北に生れし雄《を》の馬の
栗毛にまじる紫は
色あけぼのの春霞
光をまとふ風情《ふぜい》あり
星のひかりもをさまりて
噂《うはさ》に残る鶴の音や
啼く鶯に花ちれば
嗚呼この村に生れてし
馬のありとや問ふ人もなし

   雄馬《をうま》

あな天雲《あまぐも》にともなはれ
緑の髪をうちふるひ
雄馬は人に随《したが》ひて
箱根の嶺《みね》を下《くだ》りけり
胸は踴《をど》りて八百潮《やほじほ》の
かの蒼溟《わだつみ》に湧くごとく
喉《のど》はよせくる春濤《はるなみ》を
飲めども渇《かわ》く風情あり
目はひさかたの朝の星
睫毛《まつげ》は草の浅緑《あさみどり》
うるほひ光る眼瞳《ひとみ》には
千里《ちさと》の外《ほか》もほがらにて
東に照らし西に入る
天つみそらを渡る日の
朝日夕日の行衛《ゆくへ》さへ
雲の絶間に極むらん
二つの耳をたとふれば
いと幽《かすか》なる朝風に
そよげる草の葉のごとく
蹄《ひづめ》の音をたとふれば
紫金
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