光もあらぬ春の日の
独りさみしきものぐるひ
悲しき味の世の智恵に
老いにけらしな旅人よ

心の春の燭火《ともしび》に
若き命を照らし見よ
さくまを待たで花散らば
哀《かな》しからずや君が身は

わきめもふらで急ぎ行く
君の行衛《ゆくへ》はいづこぞや
琴花酒《ことはなさけ》のあるものを
とゞまりたまへ旅人よ

  二つの声

   朝

たれか聞くらん朝の声
眠《ねむり》と夢を破りいで
彩《あや》なす雲にうちのりて
よろづの鳥に歌はれつ
天のかなたにあらはれて
東の空に光あり
そこに時《とき》あり始《はじめ》あり
そこに道あり力あり
そこに色あり詞《ことば》あり
そこに声あり命あり
そこに名ありとうたひつゝ
みそらにあがり地にかけり
のこんの星ともろともに
光のうちに朝ぞ隠るゝ

   暮

たれか聞くらん暮の声
霞の翼《つばさ》雲の帯
煙の衣《ころも》露の袖《そで》
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに投げ入れて
夜の使《つかひ》の蝙蝠《かはほり》の
飛ぶ間も声のをやみなく
こゝに影あり迷《まよひ》あり
こゝに夢あり眠《ねむり》あり
こゝに闇あり休息《やすみ》あり
こゝに永《なが》きあり遠きあり
こゝに死ありとうたひつゝ
草木にいこひ野にあゆみ
かなたに落つる日とともに
色なき闇に暮ぞ隠るゝ

  哀歌

    中野逍遙をいたむ
『秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴台旧譜※[#「土へん+盧」、第3水準1−15−68]前柳、風流銷尽二千年』、これ中野逍遙が秋怨十絶《しゅうえんじゅうぜつ》の一なり。逍遙字は威卿、小字重太郎、予州宇和島の人なりといふ。文科大学の異材なりしが年|僅《わづ》かに二十七にしてうせぬ。逍遙遺稿正外二篇、みな紅心の余唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を写せしもの、『寄語残月休長嘆、我輩亦是艶生涯』、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこゝろをとゞむ。

    思君九首     中野逍遙

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思君我心傷    思君我容瘁
中夜坐松蔭    露華多似涙

思君我心悄    思君我腸裂
昨夜涕涙流    今朝尽成血

示君錦字詩    寄君鴻文冊
忽覚筆端香    ※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]外梅花白

為君調綺羅    為君築金屋
中有鴛鴦図    長春夢百禄

贈君名香篋    応記韓寿恩
休将秋扇
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