らっしゃるかと思うと、急に御自分の後を振返って、物を探る手付で宙を掴《つか》んで御覧なさいました。恐怖《おそれ》は御顔へ顕れました。やがて、すこし震えて男の傍へ倚添《よりそ》いながら、
「何時までもこうして二人で居られますまいかねえ。噫《ああ》、居られるものなら好けれど」
と沈《しめ》る。男は歎息《ためいき》を吐《つ》くばかりでした。奥様も萎れて、
「私はもう御目にかかれるか、かかれないか、知れないと思いますわ。あの昨夜《ゆうべ》の厭《いや》な夢、――どうして私はこんな不幸《ふしあわせ》な身《からだ》に生れて来たんでしょう。若しかすると、私は近い内に死ぬかも……もう御目にかかれないかも……知れません」
「また、つまらんことを。夢という奴は宛になるもんじゃなし」
「そう貴方のように仰るけれど、女の身になって御覧なさい――違いますわ。ああ、もういやいや、そんな話は廃《よ》しましょう」と奥様は気を変えて、「何時でしたっけねえ、始て貴方に御目にかかったのは。ネ、去年の五月、ホラ磯部の温泉で――未だ私がここへ嫁《かたづ》いて来ない前……」
「おおそうそう、月参講《げっさんこう》の連中が大勢泊った日でしたなあ。御一緒に青い梅のなった樹の蔭を歩いて、あの時、ソラ碓氷川《うすいがわ》で清《い》い声がしましたろう。貴方がそれを聞きつけて、『あれが河鹿《かじか》なんですか、あらそう、蜩《ひぐらし》の鳴くようですわねえ』と仰ったでしょう」
「覚えていますよ。それから岡へ上って見ると、躑躅《つつじ》が一面に咲いていて。ネ、私は坂を歩いたもんですから、息が切れて、まあどうしたら好《よか》ろうと思っていると、貴方が赤い躑躅の枝を折って、『この花の露を吸うがいい』と仰って、私にそれを下すったでしょう」[#【」】は底本では【』】と誤記、41−12]
「あの時は又た能く歩きましたなあ。貴方も草臥《くたぶれ》、私も草臥、二人で岡の上から眺めていると、遠く夕日が沈んで行くにつれて空の色がいろいろに変りましたッけ。水蒸気の多い夕暮でしたよ。あんな美しい日没《ひのいり》は二度と見たことが有ません、――今だに私は忘れないんです」
「あら、私だっても……」
御二人は目と目を見合せて、昔の美しい夢が今一度|眼前《めのまえ》を活《い》きて通るような御様子をなさいました。奥様は茶呑茶椀を取上げて、
「さ、も一つ召上りませんか」
「沢山」
「そう、そんなら私頂きましょう」
「え、召上るんですか。――然し、もう御廃《およ》しなさいよ」
「何故、私が酔ってはいけませんの」
「貴方のは無理な御酒なんだから」
「それじゃ未だ私の心を真実《ほんとう》に御存《ごぞんじ》ないのですわ。私はこうして酔って死ねば、それが何よりの本望ですもの」
無理やりに葡萄酒の罎《びん》を握《つか》ませて、男の手の上に御自分の手を持添えながら、茶呑茶椀へ注ごうとなさいました。御二人の手はぶるぶると戦《ふる》えて、酒は胡燵掛《こたつがけ》の上に溢《こぼ》れましたのです。奥様は目を閉《つぶ》って一口に飲干して、御顔を胡燵《おこた》に押宛てたと思うと、忍び音に御泣きなさるのが絞るように悲しく聞えました。唐紙に身を寄せて聞いて見れば、私も胸が込上げて来る。男は奥様を抱くようにして、御耳へ口をよせて宥《なだ》め賺《すか》しますと、奥様の御声はその同情《おもいやり》で猶々《なおなお》底止《とめど》がないようでした。私はもう掻毟《かきむし》られるような悶心地《もだえごこち》になって聞いておりますと、やがて御声は幽《かすか》になる。泣逆吃《なきじゃくり》ばかりは時々聞える。時計は十時を打ちました。茶を熱く入れて香《かおり》のよいところを御二人へ上げましたら、奥様も乾いた咽喉《のど》を霑《しめ》して、すこしは清々《せいせい》となすったようでした。急に、表の方で、
「御願い申しやす」
それは酔漢《よいどれ》の声でした。静な雪の夜ですから、濁った音声《おんじょう》で烈《はげ》しく呼ぶのが四辺《そこいら》へ響き渡る、思わず三人は顔を見合せました。
「誰だろう」と奥様は恐《こわ》がる。
「御願い申しやす、御休みですか」
歯医者はもう蒼青《まっさお》になって、酒の酔も覚めて了いました。震えながらきょろきょろと見廻して、目も眩《くら》んだようです。逃隠れをしようにも、裾の長い着物が足|纏《まと》いになって、物に躓《つまず》いたり、滑《すべ》ったりする。罎は仆《たお》れて残った葡萄酒が畳へ流れました。
半信半疑で聞いていた私も、三度呼ばれて見れば、はッと思いました。父親《おやじ》の声に相違ないのです。
「奥様、吾家《うち》の御父《おとっ》さんで御座ますよ」
奥様は屏風《びょうぶ》の蔭にちいさくなっていた男の手を執って、押入のなかに忍ばせました。私は立って参りまして表の戸を開けながら、
「御父さん、何しに来たんだよ……今頃」
「はい、道に迷ってまいりやした」と舌も碌々《ろくろく》廻りません様子。
「仕様がないなア、こんなに遅くなって人の家へ無暗《むやみ》に入って来て」
親とは言ながら奥様の手前もあり、私は面目ないと腹立《はらだた》しいとで叱《しか》るように言いました。もう奥様は其処へいらしって、燈火《あかり》に御顔を外向《そむ》けて立っておいでなさるのです。
「お定の御父さんですか」
「否《いいえ》、そうじゃごわしねえ。私《わし》は東京でごわす」
と恍《とぼ》け顔に言|淀《よど》んで、見れば手に提げた菎蒻《こんにゃく》を庭の隅《すみ》へ置きながら蹣跚《よろよろ》と其処へ倒れそうになりました。
「これ、さ、そんな処へ寝ないで早く御行《おいで》よ」
「まあ、いいから其処へ暫く休ませて遣《や》るが好《いい》やね」
「こんなに酔ったと言っちゃ寝てしまって仕方がありません。これ、御行《おいで》よ」
「そこですこし御休みなさい」
「はい」と父親《おやじ》は上框《あがりがまち》へ腰を掛けながら、
「私はお定さんに惚れて来やした」
「早く去《い》っとくれよ。こんなに遅くなって人の家へ酔って来たりなんかして」
「そう言うな。十月余《とつきあまり》も逢わねえじゃねえか。顔が見たくはねえか……」
奥様は炉辺の戸棚《とだな》を開けて、玻璃盞《コップ》を探しながら、
「水でも一つ上げましょう」
「見ろ、奥様はあの通り親切にして下さる、……時にお定、今幾時だ」
「十二時」と私は虚言《うそ》を吐《つ》いてやりました。
「なに、十……」と険《けわ》しい声で、
「十一時半」
「さあ水を御上り」と奥様はなみなみ注いだのを下さる。
「難有うごわす。ええ、ぷ、私《わし》は今夜芸者……を買って、四五円くれて了った。復《また》、私はこれから行って、……そ、そ、その、飲もうというんで」
「大変酔ったものだね」
「これ、早く御帰りよ。まるでその姿《なり》は雫《しずく》じゃないか、――傘も持たず」
「洋傘《こうもり》は買ったけれども、美代助にくれて来やした。ええ、ぷ、……なあ奥様《おくさん》、一服頂戴して」
「煙草なんか呑まなくても好《いい》から、さっさと御行《おいで》」
「さあ、煙草盆を上げますよ」
と出して下さる。その御顔を眺めて、父親は甘《うま》そうに一服頂いて、
「よう、奥様は未だ若えなア。旦那様《だんなさん》は――私旦那様の御顔も見て行きたい」
「旦那様は御留守だよ」と私が横から。
「幾時だ」と復《また》尋ねる。
「十一時半。主家《うち》じゃもう十時になれば寝るんだよ。さあ、さっさと御帰りよ」
「水を、も一つ上げましょう」
「沢山、もう頂きました」
「すこし沈静《おちつ》いたら、今夜は早く御帰りなさい。お定もああして心配していますから、ね、そうなさい」
「はい。はい。さあこれから行って復た芸者を揚げるんだ。六区へでも行かずか」
「さあ、そうだ、そうなさい」
「これは不調法を申しやした。御免なすって御くんなさい。酔えばこんなものだが、奥様、酔わねえ時は好い男だ。アハハハハハハ」
と、よろよろしながら立上りました。
「おやすみ、おやすみ」と可笑《おかし》な調子。
「何だねえ、確乎《しっかり》して御行《おいで》よ」と私は叱るように言いまして、菎蒻《こんにゃく》を提げさせて外へ送出す時に、「まあ、ひどい雪だ――気を注《つ》けて御行よ」と小声で言いました。
「お、や、す、み」
と歌のように調子をつけながら、千鳥足で出て行く。暫く私は門口に佇立《たたず》んで後姿を見送っておりますと、やがて生酔《なまよい》の本性《ほんしょう》を顕して、急にすたすたと雪の中を歩いて行きました。見れば腰付《こしつき》から足元からそれ程酔ってはいないのです。父親は直ぐ闇に隠れて見えなくなって了いました。
ホッと一息|吐《つ》いて、私は御部屋へ参って見ますと、押入のなかに隠れた人は頭かきかき苦笑《にがわらい》をしておりました。私は御気毒にもあり、御恥しくもあり、奥様の御傍へ寄添いながら、
「御父さんは上りにくいもので御座ますから、あんな酔った振をして、恍《とぼ》けて参ったんで御座ます」
「お前に逢い度《たい》からさ」
「私が是方《こちら》へ上る時に、『己《おれ》も一諸に行こう』と申しますから、誰がそんな人に行って貰うもんか、旦那様の御家へなんぞ来るのは止《よ》しとくれ、と言って遣りましたんで御座ます」
「逢い度ものと見えるねえ」
「『十月余も逢わねえじゃねえか、顔が見たくはねえか』なんて申しましたよ。馬鹿な、誰があんな酔ぱらいに逢い度もんか」
「御母《おっか》さんも心配していなさるだろうよ」
と言われて、私は逢いに来た父親《おやじ》よりも、逢いに来ない母親《おふくろ》の心が恋しくも哀しくも思われました。歯医者は熟《じっ》と物を考えて、思い沈んでおりましたのです。奥様はその顔を覗くようになすって、
「桜井さん、何をそんなに考込んでいらっしゃるの」
「成程――さすがは親だ」
「大層感心していらっしゃるのねえ」
「人情という奴は乙なものだ。……そうかなあ」
「何が、そうかなあですよ」
「難有い」
「ホホホホホ」
「そういうものかなア」
「あれ、復《また》」
「そうだ、もう半年も手紙を遣らない」
「誰方《どなた》のところへ」
「なにも私は御恩を忘れて御|無沙汰《ぶさた》をしてるんじゃ無いけれど……」
「まあ、好笑《おかし》いわ」
「つい、多忙《いそがし》くッて手紙を書く暇も無いもんだから」
「貴方、何を言っていらっしゃるの」
「え、私は何か言いましたか」
「言いましたとも。もう半年も手紙を遣らないの、御恩を忘れはしないの、手紙を書く暇がないのッて、――必《きっ》と……思出していらっしゃるんでしょう」と奥様は私の方へ御向きなすって、
「ねえ、お定、桜井さんは御|容子《ようす》が好《よく》っていらっしゃるから……」
「止して下さい。貴方はそう疑《うたぐ》り深いから厭さ」と男はすこし真面目《まじめ》になって、「こうなんです――まあ、聞いて下さい。私には義理ある先生が有ましてね、今|下谷《したや》で病院を開いているんです。私もその先生には、どんなに御世話に成ったもんだか知れません。全く、先生は私を子のように思って、案じていて下さるんで。私がこれまでに成ったというのも、先生の御蔭ですからね。ですから、『貴様は友達の出世するのを見ても羨ましくはないか、悪※[#「※」は「あしへん+宛」、48−13]《わるあがき》も好加減にしろ』なんて平素《しょっちゅう》御小言を頂戴するんです。……先生の言う通りだ――立身、出世、私はもうそんな考が無くなって了った。私の心を占領してるのは……貴方、貴方ばかりです。ああ、昔の友人《ともだち》と競争した時代から見ると、私も余程これで変ったんですなア」
と言って、稍《やや》暫時《しばらく》奥様の御顔を見つめておりましたが、やがて、思付いたように立上りました。見れば今まで着ていた裾の長い糸織を脱いで、自分の着物に着替えようとしましたから、奥様も不思議顔に、
「何故、それを
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