程に御思召すのでした。この同じ屋根の下に旦那様と御二人で御暮しなさるのは、それほど苦《つら》いと御思召すのでした。御器量から、御身分から――さぞ、あの巡礼の目には申分のない奥様と見えましたろう。奥様の目には、又た、世間という鎖に繋《つな》がれて否《いや》でも応でも引摺《ひきずら》れて、その日その日を夢のように御暮しなさるというよりか、見る影もない巡礼なぞの身の上の方が反《かえ》って自由なように御思いなさるのでした。
 御祝の宴《さかもり》がありましたから、旦那様の御帰は遅くなりました。外で旦那様が鼻の高かった日も、内では又た寂しい悲しい日でした。旦那様は酒臭い呼吸《いき》を奥様の御顔に吹きかけて置いて、直ぐ御二階の畳の上に倒れて御了いなすったのです。
 その夜から御床も別々に敷《の》べました。

    四

 手桶《ておけ》を提げて井戸に通う路は、柿の落葉で埋まった日もあり、霜溶《しもどけ》のぐちゃぐちゃで下駄の鼻緒を切らした日もあり、夷講《えびすこう》の朝は初雪を踏んで通いました。奥様から頂いて穿《は》いた古|足袋《たび》の爪先も冷くなって、鼻の息も白く見えるようになれば、北向の日蔭は雪も溶けずに凍る程のお寒さ。
 十二月の十日のこと、珍しい御客様を乗せた一|輌《だい》の人力車《くるま》が門の前で停りました。それは奥様の父親《おとう》様が東京から尋ねていらしったのです。思いがけないのですから、奥様は敷居に御躓《おつまず》きなさる程でした。旦那様も早く銀行から御帰りになる、御二人とも御客様の御待遇《おもてなし》やら東京の御話やらに紛れて、久振で楽しそうな御|笑声《わらいごえ》が奥から聞えました。奥様の御|喜悦《よろこび》は、まあ何程《どんな》で御座ましたろう、――その晩は大した御馳走でした。
 御客様は金銭上《おかね》の御相談が主で、御来遊《おいで》になりましたような御様子。御|着《つき》になって四日目のこと、旦那様と御一緒に長野へ御出掛になりました。奥様は御留守居です。私は洋傘《こうもり》と御履物を揃《そろ》えまして、御部屋へ参って見ると、未だ御仕度の最中。御客様は気短《きぜわしな》い御方で、角帯の間から時計を出して御覧なすったり、あちこちと御部屋の内を御歩きなすったりして、待遠しいという風でした。その時、私は御客様と奥様と見比べて、思当ることが有ましたのです。御客様は丸い腮《あご》を撫《な》で廻しながら、
「婆さんもね、早く孫の顔を見たいなんて、日常《しょっちゅう》その噂《うわ》さばかりさ。どうだね、……未だそんな模様は無いのかい」
 奥様は俯《うつむ》いて、御顔を紅らめて、御返事をなさいません。やがて懐しそうに、
「御父《おとっ》さん、羽織を着|更《か》えていらッしゃいよ」
「なに、これで結構。こりゃお前上等だもの」
「それでもあんまりひどい」
「この羽織は十五年からになりますがね、いいものは丈夫ですな」
 御客様は袖《そで》口を指で押えて、羽翅《はがい》のように展《ひろ》げて見せました。遽《にわか》に思直して、
「こうっと。面倒だけれど――それじゃ一つ着更えるか」
 と御自分の御包を解《ほど》いて、その中から節糸紬《ふしいとつむぎ》の御羽織を抜いて、無造作に袖を通して御覧なさいました。
「あれ、其方《そっち》のになさいよ」
「これかね。どうして、お前、此方の着物を着た時の羽織さ。ね、――この羽織で結構」
「でも何だかそれじゃ好笑《おかし》いわ。それを御着なさる位なら、まだ今までの方が好《いい》のですもの」
 御客様は茶の平打《ひらうち》の紐《ひも》を結んで、火鉢の前にべたりと坐って御覧なさいました。急に、ついと立ってまたその御羽織を脱ぎ捨てながら、
「それじゃ、これだ――もともとだ。アハハハハハハ」
 奥様がそれを引寄せて、御畳みなさるところを、御客様は銜煙管《くわえぎせる》で眺入って、もとの御包に御納《おしま》いなさるまで、熟《じっ》と視ていらっしゃいました。思いついたように、
「ハハハハ、婆さん紋付なんか入れてよこした」
 こういう罪もない御話を睦《むつ》まじそうになすっていらっしゃるところへ、旦那様も御用を片付けて、御二階から下りておいでなさいました。見る見る旦那様の下唇には嫉《ねたまし》いという御色が顕《あらわ》れました。御客様は急《せ》き立てて、
「さあ、出掛けましょう。もう三十分で汽車が出ますよ」
 御二人とも厚い外套《がいとう》を召して御出掛になりました。爺さんも御荷物を提げて、停車場まで随いて参りました。後で、取散かった物を片付けますと、御部屋の内は煙草の烟《けむり》ですこし噎《む》せる位。がらりと障子を開けて、御客様の蒲団《ふとん》や、掻巻《かいまき》や、男臭い御|寝衣《ねまき》などを縁へ乾しました。
 御独《おひとり》になると、奥様は総桐の箪笥《たんす》から御自分の御召物を出して、畳直したり、入直したり、又た取出したりして御眺めなさる――それは鏡に映る御自分の御姿に見惚《みとれ》ると同じような御様子をなさるのでした。全く御召物は奥様の御身の内と言ってもよいのですから。私も御側へ寄添いまして見せて頂きました。どれを拝見しても目うつりのする衣類《もの》ばかり。就中《わけても》、私の気に入りましたのは長襦袢です。それは薄|葡萄《ぶどう》の浜|縮緬《ちりめん》、こぼれ梅の裾《すそ》模様、※[#「※」は「ころもへん+施のつくり」、36−17]《ふき》は緋縮緬《ひぢりめん》を一分程にとって、本紅《ほんこう》の裏を附けたのでした。奥様はそれを御膝の上に乗せて、何の気なしに御婚礼の晩御召しなすったということを、私に話して聞かせました。不図《ふと》、御自分の御言葉に注意《こころづ》いて、今更のように萎返《しおれかえ》って、それを熟視《みつめ》たまま身動きもなさいません。死《しん》だ銀色の衣魚《しみ》が一つその袖から落ちました。御顔に匂いかかる樟脳《しょうのう》の香を御嗅ぎなさると、急に楽しい追憶《おもいで》が御胸の中を往たり来たりするという御様子で、私が御側に居ることすら忘れて御了いなすったようでした。
「ああああ着物も何も要らなくなっちゃった」
 と仰《おっしゃ》りながら、その長襦袢を御抱きなすったまま、さんざん思いやって、涙は絶間《とめど》もなく美しい御顔を流れました。
 その日は珍しく暖で、冬至近いとも思われません位。これは山の上に往々《たびたび》あることで、こういう陽気は雪になる前兆《しらせ》です。昼過となれば、灰色の低い雲が空一面に垂下る、家《うち》の内は薄暗くなる、そのうちにちらちら落ちて参りました。日は短し、暗さは暗し、いつ暮れるともなく燈火《あかり》を点《つけ》るようになりましたのです。爺さんも何処《どっか》へ行って飲んで来たものと見え、部屋へ入って寝込んで了いました。台所が済むと、私は奥様の御徒然《おさむしさ》が思われて、御側を離れないようにしました。時々雪の中を通る荷車の音が寂しく聞える位、四方《そこいら》は※[#「※」は「もんがまえ+貝」、37−13]《ひっそり》として、沈まり返って、戸の外で雪の積るのが思いやられるのでした。御一緒に胡燵《おこた》にあたりながら、奥様は例の小説本、私は古足袋のそそくい、長野の御噂さやら歯医者の御話やら移り移って盗賊の噂さになりますと、奥様は急に寂しがって、
「どうしたろう、爺さんは」
「もう最前《とっく》に寝て了いました」
「おや、そう、早いことねえ。お前戸じまりをよくしておくれ。泥棒が流行《はや》るッて言うよ」
 と、二人で恐《こわ》がっておりますと、誰か来て戸を叩《たた》く音が聞えました。「はてな、今時分」と、ついと私は立って参りまして、表の戸を明けて見れば――一面の闇《やみ》。仄白《ほのじろ》い夜の雪ばかりで誰の影も見えません。暫《しばら》く佇立《たたず》んでおりましたが、「晴れたな」と口の中で言って、二|歩《あし》三|歩《あし》外へ履出《ふみだ》して見ると、ぱらぱら冷いのが襟首《えりくび》のところへ被《かか》る。
「あれ、降ってるのか」と私は軒下へ退《の》いて、思わず髪を撫《な》でました。暗くはあるが、低い霧のように灰色に見えるのは、微《こまか》い雪の降るのでした。往来の向《むこう》で道を照して行く人の小|提灯《ぢょうちん》が、積った雪に映りまして、その光が花やかに明く見えるばかり。
 私は戸を閉めて暫時《しばらく》庭に立っていますと、外からコトコトと戸を叩く音がする。下駄の雪を落す音が聞える。一旦閉めた戸を復《ま》た開けて、「誰方《どなた》」と声を掛けて見ました。誰かと思えば――美しい曲者《くせもの》。
「奥様、桜井さんがいらっしゃいましたよ」
 と、早速|申上《もうしあげ》に参りましたら、奥様は不意を打たれて、耳の根元から襟首までも真紅《まっか》になさいました。物の蔭に逃隠れまして、急には御見えにもなりませんのです。この雪ですから、歯医者の外套は少許《すこし》払った位で落ちません。それを脱げば着物の裾は濡《ぬ》れておりました。いつもの様に御履物を隠して、奥様の御部屋へ御案内をしますと、男はがたがたと震えておりましたのです。
 先ず濡れたものを脱がせて、奥様は男に御自分の裾の長い御召物を出して着せました。それは本紅《ほんこう》の胴裏を附けた変縞《かわりじま》の糸織で、八つ口の開いた女物に袖を通させて、折込んだ広襟を後から直してやれば、優形《やさがた》な色白の歯医者には似合って見えました。奥様は左からも右からも眺めて、恍惚《うっとり》とした目付をなさりながら、
「お定、よく御覧よ。まあ、それでも御似合なさること。まるで桜井さんは女のように御見えなさるんだもの」
 と仰って、私の手を握りしめるのです。
 私は歯医者から美しい帯上《おびあげ》を頂きました。
 奥様の御|差図《さしず》で、葡萄酒を胡燵《おこた》の側に運びまして、玻璃盞《コップ》がわりには京焼の茶呑|茶椀《ぢゃわん》を上げました。静な上に暖で、それは欺《だま》されたような、夢心地のする陽気。年の内とは言いながら梅も咲《さき》鶯も鳴くかと思われる程。猫まで浮れて出て行きました。私は次の間に退《さが》って、春の夜の夢のような恋の御物語に聞惚れて、唐紙の隙間《すきま》から覗《のぞ》きますと、花やかな洋燈《ランプ》の光に映る奥様の夜の御顔は、その晩位御美しく見えたことは有ませんでした。奥様があの艶《つや》を帯《も》った目を細くなすって葡萄酒を召上るさまも、歯医者が例の細い白い手を振って楽しそうに笑うさまも、よく見えました。御物語も深くなるにつけ、昨日の御心配も、明日の御|煩悶《わずらい》も、すっかり忘れて御了いなすって、御二人の口唇《くちびる》には香油《においあぶら》を塗りましたよう、それからそれへと御話が滑《はず》みました。歯医者は桜色の顔を胡燵《おこた》に擦《こす》りつけて、
「奥さん」
「あれ復《ま》た。後生ですから『奥さん』だけは廃《よ》して頂戴よ」
 こころやすだてから出たこの御言葉は、言うに言われぬほど男の心を嬉しがらせたようでした。男は一寸舌なめずりをして、酒に乾いた口唇を動かしながら、
「酔った。酔った。何故こんなに酔ったか解らない」
「だっても御酒《ごしゅ》を召上ったんでしょう」奥様は笑いました。
「少ばかりいただいて、手までこんなに紅くなるとは」
 と出して見せる。
「でも、御覧なさいな、私の顔を」
 と奥様は頬《ほお》に掌を押当てて御覧なさいました。
「貴方はちっとも紅く御成《おなん》なさらない。紅くならないで蒼《あお》くなるのは、御酒が強いんだって言いますよ。――貴方はきっと御強いんだ」
「よう御座んす。沢山《たんと》仰い」と奥様はすこし甘えて、「ですがねえ、桜井さん、私は何程《どんなに》酔いたいと思っても、苦しいばかりで酔いませんのですもの」
 男は奥様の御言葉に打たれて、黙って奥様の美しい目元を熟視《みつめ》ました。奥様は障子に映る男の影法師を暫く眺めてい
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