えます」
「へえ、一寸《ちょっと》その眼鏡を拝借」と他の御客様が笑いながら受取て、「成程、むむ、これなら明瞭します」
 旦那様も笑って反《そ》りかえりました。やがて、瞬《めばたき》をしたり、眼を摩《こす》って見たりして、眼鏡を借りようとはなさいません。
「まあ、眼鏡はもう二三年懸けない積《つもり》です。懸けた方が目の為には好《いい》と言いますけれど」
「ですから、私なざア何か読む時だけ懸けるんです」と眼鏡を出した方は仔細《しさい》らしく。
「驚きましたねえ」とその隣の方が引取って、
「こんなに能《よ》く見えるのかなア。ハハハハ、こりゃ眼鏡を一つ奢《おご》るかな」
 終《しまい》には旦那様も釣込れて、
「拝借」と手を御出しなさいました。
 一人の御客様が笑いながら渡しますと、旦那様も面白そうに鼻の上へ載せて、活版刷の紙を遠く離したり近く寄せたりして御覧でした。
「懸けた工合は……どうですな」と渡した方が旦那様の御顔を覘《のぞ》くようにして尋ねる。
「や、こりゃ能く見える。これを懸ければすっかり読めます」
「ハハハハハ、酷《ひど》いものですなア」
「ハハハハハ」
 と旦那様も手を拍《う》っ
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