死ぬ程の苦《くるしみ》をいたしました。農家の女の労苦《つらさ》はどれ程でしょう――麦刈――田の草取、それから思えば荒井様の御奉公は楽すぎて、毎日遊んで暮すようなものでした。野獣《けもの》のように土だらけな足をして谷間《たにあい》を馳歩《かけある》いた私が、結構な畳の上では居睡《いねむり》も出ました位です。
何一つ御不足ということが旦那様と奥様の間《なか》には有ません。唯御似合なさらないのは御年です。ある日のこと、下座敷へ御客様が集りました。旦那様は細《こまか》い活版刷の紙を披《ひろ》げて御覧なさる、皆さんが無遠慮な方ばかりです。「こりゃ甚《ひど》い、まるで読めない」と旦那様はその紙を投出しました。
「成程、御若い方の読むんで、吾儕《われわれ》の相手になるものじゃありません。ここの処なざあ、細い線《すじ》のようです」
と言いながら、一人の御客様は袂《たもと》から銀縁の大きな眼鏡を取出しました。玉の塵《ほこり》を襦袢《じゅばん》の袖口《そでぐち》で拭いて、釣針《つりばり》のように尖《とが》った鼻の上に載せて見て、
「これなら私にも、明瞭《はっきり》とはいきませんけれど……どうかこうか見
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