て、御談話《おはなし》でした。尋ねて来る御客様は町会議員、大地主、商家《たな》の旦那、新聞屋、いずれも土地の御歴々です。御晩食《おゆはん》の後は奥様と御対座《おさしむかい》、それは一日のうちでも一番楽しい時で、笑いさざめく御声が御部屋から泄《も》れて、耳を嬲《なぶ》るように炉辺までも聞える位でした。その時は珈琲《コーヒー》か茶を上げました。
 思えば結構尽《けっこうづくめ》の御暮です。私は洋燈《ランプ》の下で雑巾《ぞうきん》を刺し初めると、柏木のことが眼前《めのまえ》に浮いて来て、毎晩癖のようになりました。吾等《こちとら》の賤《いや》しい生涯《くちすぎ》では、農事《しごと》が多忙《いそが》しくなると朝も暗いうちに起きて、燈火《あかり》を点《つ》けて朝食《あさめし》を済ます。東の空が白々となれば田野《のら》へ出て、一日働くと女の身体は綿のようです。ある時、私は母親《おふくろ》と一緒に疲れきって、草の上に転んでいると、急に白雨《ゆうだち》が落ちて来た、二人とも起上る力がないのです。汗臭い身体を雨に打たれながら倒れたままで寝ていたことも有ました。その時に後で烈《ひど》い熱病を煩《わずら》って
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