様の御顔を見ると笑が刻んであるようでした。さ、その御顔です。一時《いっとき》も油断をなさらない真面目《まじめ》な精神《こころ》の旦那様が、こうした御顔でいらっしゃるということは、不思議なようでした。然し、それが旦那様の御人《おひと》の好《いい》という証拠で、御天性《おうまれつき》の普通《なみ》の人とは違ったところでしょう。一体、寒い国の殿方には遅鈍《ぐずぐず》した無精な癖があるものですけれど、旦那様にはそれがありません。克《よく》もああ身体《からだ》が動くと思われる位に、勤勉《まめ》な働好《はたらきずき》な御方でした。
小諸で新しい事業《しごと》とか相談とか言えば、誰は差置ても先《ま》ず荒井様という声が懸る。小諸に旦那様ほどの役者はないと言いました位です。
私が上りました頃の御夫婦仲というものは、外目《よそめ》にも羨《うらや》ましいほどの御|睦《むつま》じさ。旦那様は朝早く御散歩をなさるか、御二階で御|調物《しらべもの》をなさるかで、朝飯前には小原の牝牛《うし》の乳を召上る。九時には帽子を冠って、前垂掛で銀行へ御出掛《おでまし》になる。御休暇《おやすみ》の日には御客様を下座敷へ通し
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