た。母親は華麗《はで》な御暮《おくらし》や美しい御言葉の裡《なか》に私を独《ひとり》残して置いて、柏木へ帰って了《しま》いました。
 御本宅は丸茂《まるも》という暖簾《のれん》を懸《かけ》た塩問屋、これは旦那様の御兄様《おあにいさま》で、私の上りました御家は新宅と申しました。御本宅は大勢様、奉公人も十人の上|遣《つか》っておりましたが、新宅は旦那様に奥様、奉公人といえば爺《じい》さんが一人と、其処へ私が参りましたから、合せて四人暮。御本宅は旧気質《むかしかたぎ》の土地風。新宅は又た東京風。家の構造《つくり》を見比べても解るのです。旦那様は小諸へ東京を植えるという開けた思想《かんがえ》を御持ちなすった御方で、御服装《おみなり》も、御言葉も、旧弊は一切御廃し。それを御本家では平素《しじゅう》憎悪《にく》んでいるということでした。
 まあ、聞いて下さい。世には妙な容貌《かおだち》の人もあればあるもので、泣いている時ですら見たところは笑っているとしか思われないものがあります。旦那様のが丁度それで、眼の周囲《まわり》の筋の縮んだ工合から口元と頬《ほお》の間に深い皺《しわ》のある御様子は、全く旦那
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