持ち、地梨が紅く咲いた草土手を枕にして、青麦を渡る風に髪を嬲《なぶ》らせながら、空を通る浅間の鷹《たか》を眺めて寝そべっているような楽しさを考えました。夜も更《ふ》けて来るにつれ、寝苦しく物に襲われるようで、戸棚を囓《かじ》る鼠も怖しく、遠い人の叫とも寂しい水車の音とも判《つ》かぬ冬の夜の声に身の毛が弥立《よだ》ちまして、一旦吹消した豆|洋燈《ランプ》を点けて、暗い枕|許《もと》を照しました。何度か寝返を打って、――さて眠られません。青々とした追憶《おもいで》のさまざまが、つい昨日のことのように眼中《めのなか》に浮んで来ました。もう私の心にはこの浮華《はで》な御家の御生活《おくらし》が羨しくも有ません。私は柏木のことばかり思続けました。流行謡《はやりうた》を唄って木綿機《もめんばた》を織っている時、旅商人《たびあきんど》が梭《おさ》の音《ね》を賞めて通ったことを憶出《おもいだ》しました。岡の畠へ通う道々妹と一緒に摘んだ野苺《のいちご》の黄な実を憶出しました。楽しい菱野《ひしの》の薬師参を憶出しました。大酒呑の父親《おやじ》が夕日のような紅い胸を憶出しました。父親と母親とで恐しい夫婦|喧
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