耽《ふけ》って、夢のように歩いて帰りますと、奥様は頭ごなしに、
「お前は何をしていたんだねえ。まあ本町まで使に行くのに一時間もかかってさ」
と囓付《かみつ》くように仰いました。その時、私は奥様と目を見合せて、言うに言われぬ嫌《いや》な気持になりましたのです。怒った振《ふり》も気取《けど》られたくないと、物を言おうとすれば声は干乾《ひから》びついたようになる、痰《たん》も咽喉《のど》へ引懸る。故《わざ》と咳《せき》払して、可笑《おかし》くも無いことに作笑《つくりわらい》して、猫を冠っておりました。
その晩は、まんじりともしません。始めて奉公に上りました頃は、昼は働に紛れても、枕に就くと必《きっ》と柏木のことを思出すのが癖になって、「御母さん、御母さん」と蒲団《ふとん》のなかで呼んでは寝ました。次第に柏木の空も忘れて、母親《おふくろ》の夢を見ることも稀《たま》に成りました。さ、その晩です。復《ま》た私の心は柏木の方に向きました。その晩程母親を恋しく思ったことは有ません。唐草《からくさ》模様の敷蒲団の上は、何時の間にか柏木の田圃《たんぼ》側のようにも思われて、蒲公英《たんぽぽ》が黄な花を
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