嘩《げんか》をして、母親が「さあ、殺せ、殺すなら殺せ」と泣叫んだことも憶出しました。終《しまい》には私が七つ八つの頃のことまで幽《かす》かに憶出しました。すると熱い涙が流れ出して、自分で自分を思いやって泣きました。髪は濡れ、枕紙も湿りましたのです。思い労《つか》れるばかりで、つい暁《あけがた》まで目も合いません。物の透間《すきま》が仄白《ほのじろ》くなって、戸の外に雀の寝覚が鈴の鳴るように聞える頃は、私はもう起きて、汗臭い身体に帯〆て、釜の下を焚附《たきつ》けました。
 私も奥様に蹴《け》られたままで、追出される気は有ません。身の明りを立てた上で、是方《こちら》から御暇を貰って出よう、と心を決めました。あまりといえば袖《つれ》ない奥様のなされかた、――よし不義のそもそもから旦那様の御耳に入れて、御気毒ながらせめてもの気晴《きばらし》に、奥様の計略の裏を掻いてくれんと、私は女の本性を顕したのです。もうその朝は復讐《かたきうち》の心より外に残っているものは無いのでした。
 炉に掛けた雪平《ゆきひら》の牛乳も白い泡を吹いて煮立ちました頃、それを玻璃盞《コップ》に注いで御二階へ持って参りますと
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