た日でしたなあ。御一緒に青い梅のなった樹の蔭を歩いて、あの時、ソラ碓氷川《うすいがわ》で清《い》い声がしましたろう。貴方がそれを聞きつけて、『あれが河鹿《かじか》なんですか、あらそう、蜩《ひぐらし》の鳴くようですわねえ』と仰ったでしょう」
「覚えていますよ。それから岡へ上って見ると、躑躅《つつじ》が一面に咲いていて。ネ、私は坂を歩いたもんですから、息が切れて、まあどうしたら好《よか》ろうと思っていると、貴方が赤い躑躅の枝を折って、『この花の露を吸うがいい』と仰って、私にそれを下すったでしょう」[#【」】は底本では【』】と誤記、41−12]
「あの時は又た能く歩きましたなあ。貴方も草臥《くたぶれ》、私も草臥、二人で岡の上から眺めていると、遠く夕日が沈んで行くにつれて空の色がいろいろに変りましたッけ。水蒸気の多い夕暮でしたよ。あんな美しい日没《ひのいり》は二度と見たことが有ません、――今だに私は忘れないんです」
「あら、私だっても……」
 御二人は目と目を見合せて、昔の美しい夢が今一度|眼前《めのまえ》を活《い》きて通るような御様子をなさいました。奥様は茶呑茶椀を取上げて、
「さ、も一つ召
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