上りませんか」
「沢山」
「そう、そんなら私頂きましょう」
「え、召上るんですか。――然し、もう御廃《およ》しなさいよ」
「何故、私が酔ってはいけませんの」
「貴方のは無理な御酒なんだから」
「それじゃ未だ私の心を真実《ほんとう》に御存《ごぞんじ》ないのですわ。私はこうして酔って死ねば、それが何よりの本望ですもの」
無理やりに葡萄酒の罎《びん》を握《つか》ませて、男の手の上に御自分の手を持添えながら、茶呑茶椀へ注ごうとなさいました。御二人の手はぶるぶると戦《ふる》えて、酒は胡燵掛《こたつがけ》の上に溢《こぼ》れましたのです。奥様は目を閉《つぶ》って一口に飲干して、御顔を胡燵《おこた》に押宛てたと思うと、忍び音に御泣きなさるのが絞るように悲しく聞えました。唐紙に身を寄せて聞いて見れば、私も胸が込上げて来る。男は奥様を抱くようにして、御耳へ口をよせて宥《なだ》め賺《すか》しますと、奥様の御声はその同情《おもいやり》で猶々《なおなお》底止《とめど》がないようでした。私はもう掻毟《かきむし》られるような悶心地《もだえごこち》になって聞いておりますと、やがて御声は幽《かすか》になる。泣逆吃《な
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