らっしゃるかと思うと、急に御自分の後を振返って、物を探る手付で宙を掴《つか》んで御覧なさいました。恐怖《おそれ》は御顔へ顕れました。やがて、すこし震えて男の傍へ倚添《よりそ》いながら、
「何時までもこうして二人で居られますまいかねえ。噫《ああ》、居られるものなら好けれど」
 と沈《しめ》る。男は歎息《ためいき》を吐《つ》くばかりでした。奥様も萎れて、
「私はもう御目にかかれるか、かかれないか、知れないと思いますわ。あの昨夜《ゆうべ》の厭《いや》な夢、――どうして私はこんな不幸《ふしあわせ》な身《からだ》に生れて来たんでしょう。若しかすると、私は近い内に死ぬかも……もう御目にかかれないかも……知れません」
「また、つまらんことを。夢という奴は宛になるもんじゃなし」
「そう貴方のように仰るけれど、女の身になって御覧なさい――違いますわ。ああ、もういやいや、そんな話は廃《よ》しましょう」と奥様は気を変えて、「何時でしたっけねえ、始て貴方に御目にかかったのは。ネ、去年の五月、ホラ磯部の温泉で――未だ私がここへ嫁《かたづ》いて来ない前……」
「おおそうそう、月参講《げっさんこう》の連中が大勢泊っ
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