話が滑《はず》みました。歯医者は桜色の顔を胡燵《おこた》に擦《こす》りつけて、
「奥さん」
「あれ復《ま》た。後生ですから『奥さん』だけは廃《よ》して頂戴よ」
 こころやすだてから出たこの御言葉は、言うに言われぬほど男の心を嬉しがらせたようでした。男は一寸舌なめずりをして、酒に乾いた口唇を動かしながら、
「酔った。酔った。何故こんなに酔ったか解らない」
「だっても御酒《ごしゅ》を召上ったんでしょう」奥様は笑いました。
「少ばかりいただいて、手までこんなに紅くなるとは」
 と出して見せる。
「でも、御覧なさいな、私の顔を」
 と奥様は頬《ほお》に掌を押当てて御覧なさいました。
「貴方はちっとも紅く御成《おなん》なさらない。紅くならないで蒼《あお》くなるのは、御酒が強いんだって言いますよ。――貴方はきっと御強いんだ」
「よう御座んす。沢山《たんと》仰い」と奥様はすこし甘えて、「ですがねえ、桜井さん、私は何程《どんなに》酔いたいと思っても、苦しいばかりで酔いませんのですもの」
 男は奥様の御言葉に打たれて、黙って奥様の美しい目元を熟視《みつめ》ました。奥様は障子に映る男の影法師を暫く眺めてい
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