御覧よ。まあ、それでも御似合なさること。まるで桜井さんは女のように御見えなさるんだもの」
と仰って、私の手を握りしめるのです。
私は歯医者から美しい帯上《おびあげ》を頂きました。
奥様の御|差図《さしず》で、葡萄酒を胡燵《おこた》の側に運びまして、玻璃盞《コップ》がわりには京焼の茶呑|茶椀《ぢゃわん》を上げました。静な上に暖で、それは欺《だま》されたような、夢心地のする陽気。年の内とは言いながら梅も咲《さき》鶯も鳴くかと思われる程。猫まで浮れて出て行きました。私は次の間に退《さが》って、春の夜の夢のような恋の御物語に聞惚れて、唐紙の隙間《すきま》から覗《のぞ》きますと、花やかな洋燈《ランプ》の光に映る奥様の夜の御顔は、その晩位御美しく見えたことは有ませんでした。奥様があの艶《つや》を帯《も》った目を細くなすって葡萄酒を召上るさまも、歯医者が例の細い白い手を振って楽しそうに笑うさまも、よく見えました。御物語も深くなるにつけ、昨日の御心配も、明日の御|煩悶《わずらい》も、すっかり忘れて御了いなすって、御二人の口唇《くちびる》には香油《においあぶら》を塗りましたよう、それからそれへと御
前へ
次へ
全87ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング