を閉めて暫時《しばらく》庭に立っていますと、外からコトコトと戸を叩く音がする。下駄の雪を落す音が聞える。一旦閉めた戸を復《ま》た開けて、「誰方《どなた》」と声を掛けて見ました。誰かと思えば――美しい曲者《くせもの》。
「奥様、桜井さんがいらっしゃいましたよ」
 と、早速|申上《もうしあげ》に参りましたら、奥様は不意を打たれて、耳の根元から襟首までも真紅《まっか》になさいました。物の蔭に逃隠れまして、急には御見えにもなりませんのです。この雪ですから、歯医者の外套は少許《すこし》払った位で落ちません。それを脱げば着物の裾は濡《ぬ》れておりました。いつもの様に御履物を隠して、奥様の御部屋へ御案内をしますと、男はがたがたと震えておりましたのです。
 先ず濡れたものを脱がせて、奥様は男に御自分の裾の長い御召物を出して着せました。それは本紅《ほんこう》の胴裏を附けた変縞《かわりじま》の糸織で、八つ口の開いた女物に袖を通させて、折込んだ広襟を後から直してやれば、優形《やさがた》な色白の歯医者には似合って見えました。奥様は左からも右からも眺めて、恍惚《うっとり》とした目付をなさりながら、
「お定、よく
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