りながら、奥様は例の小説本、私は古足袋のそそくい、長野の御噂さやら歯医者の御話やら移り移って盗賊の噂さになりますと、奥様は急に寂しがって、
「どうしたろう、爺さんは」
「もう最前《とっく》に寝て了いました」
「おや、そう、早いことねえ。お前戸じまりをよくしておくれ。泥棒が流行《はや》るッて言うよ」
 と、二人で恐《こわ》がっておりますと、誰か来て戸を叩《たた》く音が聞えました。「はてな、今時分」と、ついと私は立って参りまして、表の戸を明けて見れば――一面の闇《やみ》。仄白《ほのじろ》い夜の雪ばかりで誰の影も見えません。暫《しばら》く佇立《たたず》んでおりましたが、「晴れたな」と口の中で言って、二|歩《あし》三|歩《あし》外へ履出《ふみだ》して見ると、ぱらぱら冷いのが襟首《えりくび》のところへ被《かか》る。
「あれ、降ってるのか」と私は軒下へ退《の》いて、思わず髪を撫《な》でました。暗くはあるが、低い霧のように灰色に見えるのは、微《こまか》い雪の降るのでした。往来の向《むこう》で道を照して行く人の小|提灯《ぢょうちん》が、積った雪に映りまして、その光が花やかに明く見えるばかり。
 私は戸
前へ 次へ
全87ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング