御独《おひとり》になると、奥様は総桐の箪笥《たんす》から御自分の御召物を出して、畳直したり、入直したり、又た取出したりして御眺めなさる――それは鏡に映る御自分の御姿に見惚《みとれ》ると同じような御様子をなさるのでした。全く御召物は奥様の御身の内と言ってもよいのですから。私も御側へ寄添いまして見せて頂きました。どれを拝見しても目うつりのする衣類《もの》ばかり。就中《わけても》、私の気に入りましたのは長襦袢です。それは薄|葡萄《ぶどう》の浜|縮緬《ちりめん》、こぼれ梅の裾《すそ》模様、※[#「※」は「ころもへん+施のつくり」、36−17]《ふき》は緋縮緬《ひぢりめん》を一分程にとって、本紅《ほんこう》の裏を附けたのでした。奥様はそれを御膝の上に乗せて、何の気なしに御婚礼の晩御召しなすったということを、私に話して聞かせました。不図《ふと》、御自分の御言葉に注意《こころづ》いて、今更のように萎返《しおれかえ》って、それを熟視《みつめ》たまま身動きもなさいません。死《しん》だ銀色の衣魚《しみ》が一つその袖から落ちました。御顔に匂いかかる樟脳《しょうのう》の香を御嗅ぎなさると、急に楽しい追憶
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