御客様は丸い腮《あご》を撫《な》で廻しながら、
「婆さんもね、早く孫の顔を見たいなんて、日常《しょっちゅう》その噂《うわ》さばかりさ。どうだね、……未だそんな模様は無いのかい」
 奥様は俯《うつむ》いて、御顔を紅らめて、御返事をなさいません。やがて懐しそうに、
「御父《おとっ》さん、羽織を着|更《か》えていらッしゃいよ」
「なに、これで結構。こりゃお前上等だもの」
「それでもあんまりひどい」
「この羽織は十五年からになりますがね、いいものは丈夫ですな」
 御客様は袖《そで》口を指で押えて、羽翅《はがい》のように展《ひろ》げて見せました。遽《にわか》に思直して、
「こうっと。面倒だけれど――それじゃ一つ着更えるか」
 と御自分の御包を解《ほど》いて、その中から節糸紬《ふしいとつむぎ》の御羽織を抜いて、無造作に袖を通して御覧なさいました。
「あれ、其方《そっち》のになさいよ」
「これかね。どうして、お前、此方の着物を着た時の羽織さ。ね、――この羽織で結構」
「でも何だかそれじゃ好笑《おかし》いわ。それを御着なさる位なら、まだ今までの方が好《いい》のですもの」
 御客様は茶の平打《ひらうち》
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