凄婉なというよりは悲傷《いたま》しい、それを清《すず》しい哀《かな》しい声で歌いましたのです。世間を見るに、美《い》い声が醜《まず》い口唇《くちびる》から出るのは稀《めずら》しくも有ません。然し、この女のようなのも鮮《すくな》いと思いました。一節歌われると、もう私は泣きたいような心地《こころもち》になって、胸が込上げて来ました。やがて女は蒼《あおざ》めた顔を仰《あ》げて、
ふるさとやはるばるここにきみゐでら
はなのみやこもちかくなるらん
「故郷や」の「や」には力を入れました。清《すず》しい声を鈴に合せて、息を吸入れて、「はるばるここに」と長く引いた時は女の口唇も震えましたようです。「花の都も」と歌いすすむと、見る見る涙が女の頬を伝いまして、落魄《おちぶれ》た袖にかかりました。奥様は熟々《つくづく》聞|惚《ほ》れて、顔に手を当てておいでなさいました――まあ、どんな御心地《おこころもち》がその時奥様の御胸の中を往たり来たりしたものか、私には量りかねましたのです。歌が済みますと、奥様は馴々《なれなれ》しく、
「今のは何という歌なんですね」
「なんでござります。はァ、御|詠歌《えいか》
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