掛《きがかり》になって、御二人のことばかりが案じられました。
 黄昏《ゆうがた》に、私は水汲をして手桶を提げながら門のところまで参りますと、四十|恰好《かっこう》の女が格子前《こうしさき》に立っておりました。姿を視れば巡礼です。赤い頭巾《ずきん》を冠せた乳呑児を負いまして、鼠色の脚絆《きゃはん》に草鞋穿《わらじばき》、それは旅疲《たびやつれ》のしたあわれな様子。奥様は泣|腫《はら》した御顔を御出しなすって、きょうの御祝の御余《おあまり》の白米や金銭《おかね》をこの女に施しておやりなさるところでした。奥様が巡礼を御覧なさる目付には言うに言われぬ愁《うれい》が籠っておりましたのです。
「私にその歌を、もう一度聞かしておくれ」
 と奥様が優しく御尋ねなさると、巡礼は可笑《おかし》な土地|訛《なまり》で、
「歌でござりますか、ハイそうでござりますか」
 寂しそうに笑って、やがて、鈴を振鳴して一節《ひとふし》唄いましたのは、こうでした。
  ちちははのめぐみもふかきこかはでら
  ほとけのちかきたのもしのみや
 日に焼けた醜《まず》い顔の女では有りましたが、調子の女らしい、節の凄婉《あわれ》な、
前へ 次へ
全87ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング