れましたのです。御一人で小諸を負《しょ》って御立ちなさる程の旦那様でも、奥様の心一つを御自由に成さることは出来ません。微々《ちいさ》な小諸の銀行を信州一と言われる位に盛大《おおき》くなすった程の御腕前は有ながら、奥様の為には一生の光栄《ほまれ》も塵埃《ごみくた》同様に捨てて御了いなすって、人の賛《ほ》めるのも羨《うら》やむのも悦《うれ》しいとは思召さないのでした。これが他の殿方ででもあったら、奥様の御髪《おぐし》を掻廻《つかみまわ》して、黒|縮緬《ちりめん》の御羽織も裂けるかと思う位に、打擲《ぶちたたき》もなさりかねない場合でしょう。並勝《なみすぐ》れて御人の好い旦那様ですから、どんな烈《はげ》しい御腹立の時でも、面と向っては他《ひと》にそれを言得ないのでした。旦那様は御自分の髪の毛を掻毟《かきむし》って、畳を蹴《け》って御出掛《おでまし》になりました。ぴしゃんと唐紙を御閉めなすった音には、思わず私もひょろひょろとなりましたのです。
 私は御部屋へ取って返して、泣き伏した奥様をいろいろと言慰《いいなだ》めて見ましたが、御返事もなさいません。すこし遠慮して、勝手へ来て見れば、又たどうも気
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