同情が無いと言ったんだ。男の事業が解る位なら、そんな挨拶の出来よう筈《はず》もない。まあ、私の言うことを能く聞いてくれ。自慢をするじゃアないが、今日《こんにち》小諸の商業は私の指先一つでどうにでも、動かせる。不景気だ、不景気だ、こう口癖のように言いながらも、小諸の商人が懐中《ふところうち》の楽なのは、私が銀行に巌張《がんば》っているからだ。町会の事業でも、計画でも、皆私の意見を基にしてやっている。小諸が盛んになるも、衰えるも、私の遣方《やりかた》一つにあるのだ。その私が事業《しごと》の記念だと言って、爰《ここ》へこうして並べて、お前に見て喜んで貰おうとしているのに……アハハハハハハ」
と、旦那様は熱い涙を手に持った黄金の御盃へ落しました。
やがて、御盃や御羽織を掻浚《かきさら》うようになすって、旦那様は御部屋から御座敷の方へいらっしゃる。御様子がどうも尋常《ただ》ではないと、私も御後から随いて行って見ました。もうもう堪《こら》えきれないという御様子で、突然《いきなり》、奉書を鷲掴《わしづか》みにして、寸断々々《ずたずた》に引裂いて了いました。啜泣《すすりなき》の涙は男らしい御顔を流
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