の御祝に、これは銀行から私へくれたのだ。まあ、私に取っては名誉な記念だ。そら、盃の中に名前が彫ってあるだろう。御覧よ、この奉書には種々《いろいろ》文句が書いてある」
「拝見しました」
「もっと能《よ》く見ておくれ。そんな冷淡な挨拶《あいさつ》があるものか。折角こうして、お前に見せようと思って持って来たものを……何とか、一言位」
「ですから拝見しましたと言ってるじゃ有ませんか」
旦那様は口を噤《つぐ》んで了いました。御互に物を仰らないのは、仰るよりも猶《なお》か冷い心地《こころもち》がしましたのです。旦那様は少許《すこし》震えて、穴の開く程奥様の御顔を熟視《みつめ》ますと、奥様は口唇《くちびる》に微《かすか》な嘲笑《さげすみわらい》を見《みせ》て、他の事を考えておいでなさるようでした。やがて、旦那様は御盃を取上げて、熟々《つくづく》眺めながら歎息《ためいき》を吐《つ》いて、
「そう女というものは男の事業《しごと》に冷淡なものかな。今までは、もうすこし同情《おもいやり》が有るものかと思っていた」
「どうせ私なぞに貴方がたの成さる事は解りません」
「無論さ。何も解って貰おうとは言やしない。
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