萎《しお》れて了いました。思えば御無理も御座ません――活《い》き返るような恋の雨が、そこへ清《すず》しく降りそそいで来たのですから。
丁度、秋草のさかりで、歯医者の通う路《みち》は美しゅうございました。
三
十月の二十日は銀行に十五年の大祝というのが有ました。旦那様に取ては一生のうちに忘れられない日で、彼処《あそこ》でも荒井様、是処《ここ》でも荒井様、旦那様の御評判は光岳寺の鐘のように町々へ響渡りました。長いお功労《ほねおり》を賛《ほ》めはやす声ばかりで。
その朝は、私も早く起きて朝飯の用意をしました。台所の戸の開捨てた間から、秋の光がさしこんで、流許《ながしもと》の手桶《ておけ》や亜鉛盥《ばけつ》が輝《ひか》って見える。青い煙は煤[#底本では「媒」の誤り]《すす》けた窓から壁の外へ漏れる。私は鼻を啜《すす》りながら、焚落《たきおと》しの火を十能に取って炉へ運びましても、奥様は未だ御目覚が無い。熱湯《にえゆ》で雑巾を絞《しぼ》りまして、御二階を済ましても、まだ御起きなさらない。その内に、炉に掛けた鍋は沸々と煮起《にた》って、蓋の間から湯気が出るようになる。うまそうな汁
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