の香が炉辺《ろばた》に満ち溢《あふ》れました。
八時を打っても、未だ奥様は御寐《おやすみ》です。旦那様は炉辺で汁の香を嗅いで、憶出《おもいだ》したように少許《すこし》萎れておいでなさいました。やがて、御独で御膳を引寄せて、朝飯を召上ると、もう銀行からは御使でした。そそくさと御仕度をなすって、黒七子《くろななこ》の御羽織は剣菱《けんびし》の五つ紋、それに茶苧《ちゃう》の御袴《おはかま》で、隆《りゅう》として御出掛になりました。私は鍋を掛けたり、下したりしていると、漸《ようよ》う九時過になって、奥様は楊枝を銜《くわ》えながら台所へ御見えなさいました、――恐しい夢から覚めたような目付をなすって。もう味噌汁《おみおつけ》も煮詰って了ったのです。
その日は御祝の印といって、旦那様の御思召《おぼしめし》から、門に立つものには白米と金銭《おかね》を施しました。
一体、旦那様は乞食が大嫌いな御方で、「乞食を為《す》る位なら死んでしまえ」と叱※[#「※」は「口へん+它」、27−14]《しかりとば》す位ですから、こんなことは珍しいのです。その日は朝から哀な声が門前に聞えました。それを又た聞伝えて、掴
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