、是方《こっち》の弱身になることはありません。思いつめた御心から掻口説《かきくど》かれて見れば、終《しまい》には私もあわれになりまして、染々《しみじみ》御身上《おみのうえ》を思遣りながら言慰《いいなぐさ》めて見ました。奥様は私の言葉を御聞きなさると、もう子供のように御泣きなさるのでした。
拠《よんどころ》なく、私も引受けて、歯医者に逢わせる御約束をしましたら、漸《やっ》と、その時、火のように熱い御手が私から離れたようにこころづきました。
その晩は、私も仮《ほん》の出来心で、――若い内に有勝《ありがち》な量見から。
然し、悪戯《いたずら》が悪戯でなくなって、事実《ほんとう》も事実《ほんとう》も恐しい事実になって行くのを見ては、さすがに私も震えました。私は後暗いと、恐しいとで、噂さを嗅附《かぎつ》ける犬のようになって、御人の好い旦那様にまで吠《ほ》えました。
或時は自分で責められるような自分の心を慰めて見たこともありましたのです。全く道ならぬ奥様の恋とは言いながら、思の外のあわれも有ましたので。人の知らない暗涙《なみだ》は夜の御床に流れても、それを御話しなさるという女の御友達は有ま
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