うにお言《いい》だと、私が困るじゃないか。そんなに言う程の物じゃないんだよ。お前がよく勤めておくれだから、寸《ほん》の私の志と思っておくれ。……いいからさ、それは仕舞ってお置き」
奥様はまだ何か言いたそうにして、それを言得ないで、深い歎息《ためいき》を御吐《おつ》きなさるばかりでした。危い絶壁《がけ》の上に立って、谷底でも御覧なさるような目付をなさりながら、左右を見廻して震えました。「お前だから話すがねえ」までは出ましても、二の句が口|籠《ごも》って、切れて了います。
「今夜私がお前に話すことは、決して誰にも話さないという約束をしておくれ。それを聞かないうちは――然しお前に限ってそんな軽卒《かるはずみ》なことはあるまいけれど」
幾度も念を押して、まだ仰り悪《にく》いという風でしたが、さて話そうとなると、急に御顔が耳の根元までも紅くなりました。
遂々《とうとう》奥様は御声をちいさくなすって、打開けた御話を私になさいました。その時、私は始めて歯医者とのこれまでの関係を聞きましたのです。私は手を堅く握〆られて、妙に顔が熱《ほて》りました。他《ひと》から内証を打開《うちあ》けられた時ほど
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