んでしたけれど、御顔を見ているうちに、美しい朱唇《くちびる》が曲《ゆが》んで来て、終《しまい》に微笑《にっこりわらい》になって了いました。
洋燈《ランプ》の側にうとうとしていた猫が、急に耳を振って、物音に驚いたように馳出《かけだ》したので、奥様も私も殿方の御噂さを休《や》めて聞耳を立てていますと、須叟《やがて》猫は御部屋へ帰って来て、前|脚《あし》を延しながら一つ伸《のび》をして、撓垂《しなだれ》るように奥様の御膝へ乗りました。御子様がないのですから、奥様も恰《さ》も懐しそうに抱〆《だきしめ》て、白い頬をその柔い毛に摺付《すりつけ》て、美しい夢でも眼の前を通るような溶々《とけどけ》とした目付をなさいました。
つい側に針箱が有ました。奥様はそれを引寄せて、引出のなかから目も覚めるような美しい半|襟《えり》を取出して、「こないだから、これをお前に上げよう上げようと思っていたんだよ」
と仰りながら私に掴《つか》ませました。夜のことですから、紫|縮緬《ちりめん》が小豆《あずき》色に見えました。私は目を円くして、頂いてよいやら、悪いやらで、さんざん御断りもして見たのです。
「あれ、お前のよ
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