なさることも有ました。
秋のはじめから、奥様は虫歯の御煩《おわずらい》で時々|酷《ひど》い御苦痛《おくるしみ》をなさいましたのです。烈《はげ》しくなると私を御離しなさらないで、切ないような目付をなさりながら、私の背《せなか》に御頭《おつむり》を押しつけておいでなさる。耳から頬へかけて腫起《はれあが》りまして、御顔色は蒼ざめ、額もすこし黄ばんでまいります。これには旦那様も大弱りで、御自分の額を撫《な》でたり、大きな手を揉んで見たりして、御介抱をなさいましたのです。
と申したような訳で、よく歯医者が黒い鞄《かばん》を提げてやって参りました。
歯医者というのは、桜井さんと言って、年はまだ若いが、腕はなかなか有ました。私が勝手口の木戸を開けて、河ばたの石の上に蹲跼《しゃが》みながら、かちゃかちゃと鍋《なべ》を洗っていると、この人が坂の下の方から能く上って参りました。慣々《なれなれ》しく私の傍《そば》へ来て、鍋の浸《つ》けてある水中《みずのなか》を覗いて見たり、土塀から垂下っていた柿の枝振《えだぶり》を眺めたり、その葉裏から秋の光を見上げたりして、何でもない主家《うち》の周囲《まわり》を、
前へ
次へ
全87ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング