奥様が居て下さるのは――籠《かご》に鶯《うぐいす》の居るように思召《おぼしめ》して、私でさえ御気毒に思う時でも御腹立もなさらないのでした。旦那様は銀行から御帰りになると、時々両手を組合せて、御庭の夏を眺めながら憂愁《ものおもい》に沈んでおいでなさることもあり、又、日によっては直に御二階へ御上りになって、御飯の時より外《ほか》には下りておいでなさらないこともありました。奥様が御気色《ごきしょく》の悪い日には旦那様は密《そっ》と御部屋へ行って、恐々《おずおず》御傍へ寄りながら、「綾さん、どっか悪いのかい。こんな畳の上に寝転んでいて、風でも引いちゃ不可《いけな》いじゃないか。そうしていないで、診《み》て貰《もら》ってはどうだね」と御聞きなさる。「いいえ、関《かま》わずに置いて下さい」というのが奥様の御返事でした。
 変れば変るものです。奥様は御独《おひとり》で縁側に出て、籠の中の鳥のように東京の空を御眺めなさることもあり、長い御手紙を書きながら啜泣《すすりなき》をなさることも有ました。時によると、御寝衣《おねまき》のまま、冷々《ひやひや》した山の上の夜気に打れながら、遅くまで御庭の内を御歩き
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