無暗《むやみ》に御部屋の雑巾掛や御掃除をさせて、物を仰るにも御声が咽喉《のど》へ乾《ひから》びついたようになります。そうなると、旦那様と御取膳《おとりぜん》で御飯を召上る時でも、口を御|利《き》きなさらないことがありました。
 旦那様は五黄《ごおう》の金《かね》、その年の運気は吉、それに引換え奥様は八方塞《はっぽうふさがり》、唯じっとして運勢の開けるのを待てと、菓子屋の隣の悟道先生が占いました。全く、奥様の為には廻合《まわりあわせ》も好くない年と見えて、何かの前兆《しらせ》のように悪《いや》な夢ばかり御覧なさるのでした。女程心細いものは有ません。それを又た苦になさるのが病人のようでした。結構尽《けっこうづくめ》の御身体は弱々しくなり、心《しん》は労《つか》れ、風邪《かぜ》も引き易くなって、朝は欠《あくび》ばかりなさいました。「女というものは、つまらないものだ」と仰って、深い歎息に埋《うずま》って、花も嗅いで御捨てなさいました。旦那様は奥様の御機嫌を取るようになすって、御小使帳が投遣《なげや》りでも、御出迎に出たり出なかったりでも、何時まで朝寝をなさろうとも、それで御小言も仰らず。御家に
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