っと何か甘《おい》しい物はないか」と仰るのでした。新酔月の料理も二口三口召上って見て、犬にくれました。女の歓楽《たのしみ》ほど短いものはありません。奥様はその歓楽にすら疲れて、飽々となさいました。
「毎日、毎日、同じ事をするのかなア」
というのは、柱に倚《もた》れての御独語《おひとりごと》でした。浮気な歓楽が奥様への置土産は、たったこの一語《ひとこと》です。
次第に奥様は短気《きみじか》にも御成なさいました。旦那様は物事が精密《こまか》過《すぎ》て、何事にもこの御気象が随《つ》いて廻るのですから、奥様はもう煩《うるさ》いという御顔色をなさるのでした。「これは乃公《おれ》の病気だから止《や》められない」と、能《よ》く御自分でも承知していらっしゃるのです。殊《こと》に、奥様が癇癪《かんしゃく》を起した時なぞは、「ちょッ、貴方《あなた》のように濃厚《しつこ》い方はありゃしない」と言って、ぷいと立って行って御了いなさることも有ました。奥様の癇癪の起きた日は直《すぐ》に知れます。毎《いつ》でも御顔色が病人のようになって、鼻の先が光りまして、眉《まゆ》の間が茶色に見えます。後の首筋を蒼くして、
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