まして、仏壇のかげに桑の葉じょきじょき、まあこれをやらない家は無いのです。奥様は御慣れなさらないことでもあり、御嫌いでもあり、蚕の臭《におい》を嗅《か》げば胸が悪くなると仰《おっしゃ》る位でした。御本家の御女中方が灰色の麻袋を首に掛けて、桑の嫩芽《しんめ》を摘みに御出《おいで》なさる時も、奥様は長火鉢に倚《もた》れて、東京の新狂言の御噂さをなさいました。
 もともと旦那様は奥様に御執心で、御二人で楽《たのし》い御暮をなさりたいという外に、別に御望は無いのですから、唯もう嬉しいという御顔を見たり、御声を聞たりするのが何よりの御楽み――こうもしたら御喜びなさるか、ああもしたら御機嫌が、と気を御|揉《も》みなさいました。それは奥様を呼捨にもなさらないで、「綾さん、綾さん」と、さん付になさるのでも知れます。旦那様がこれですから、奥様は家庭《おうち》を温泉の宿のような気で、働くという昼があるでなければ、休むという夜があるでもなし、毎日好いた事して暮しました。「お定、きょうは幾日《いくにち》だっけねえ」と、日も御存《ごぞんじ》ないことがある。たまたま壁の暦を見て、時の経つのに驚きました位。夢の間に
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