だろう。耐《こら》えに耐えた旦那様の御怒が一旦洪水のように切れようものなら、まあその勢はどんなであろう。平常《ふだん》御人の好い旦那様のような御方が御|立腹《はらだち》となった日には、どんな恐しいことをなさるだろう。とこう想い浮べましたら、遽《にわか》に身の毛が弥起《よだ》って、手も足も烈しく震えました。ふらふらとして其処へ仆《たお》れそうにもなる。とても躊躇《ためら》わずにはいられませんのでした。私は見えない先のことに恐れて、上草履を鳴らしながら板の間を歩いて見ました。
冬の光は明窓《あかりまど》から寂しい台所へさしこんで、手慣れた勝手道具を照していたのです。私は名残惜しいような気になって、思乱れながら眺めました。二つ竈《べっつい》は黒々と光って、角に大銅壺《おおどうこ》。火吹竹はその前に横。十能《じゅうの》はその側に縦。火消|壺《つぼ》こそ物言顔。暗く煤《すす》けた土壁の隅に寄せて、二つ並べたは漬物の桶《おけ》。棚の上には、伏せた鍋、起した壺、摺鉢《すりばち》の隣の箱の中には何を入れて置いたかしらん。棚の下には味噌の甕《かめ》、醤油《しょうゆ》の樽《たる》。釘に懸けたは生薑擦子《わさびおろし》か。流許の氷は溶けてちょろちょろとして溝《どぶ》の内へ入る。爼板《まないた》の出してあるは南瓜を祝うのです。手桶の寝せてあるは箍《たが》の切れたのです。※[#「たけかんむり」に「瓜」、62−6]《ざる》に切捨てた沢菴《たくあん》の尻も昨日の茶殻に交って、簓《ささら》と束藁《たわし》とは添寝でした。眺めては思い、考えては迷い、あちこちと歩いておりますと、急に楽隊の音がする。大太鼓や喇叭が冬の空に響き渡って、君が代の節が始りました。台所の下駄を穿《は》いて裏へ出て見ますと、幾千人の群の集った式場は十字を白く染抜いた紫の幕に隠れて、内の様子も分りません。幕の後から覗く百姓の群もあれば、柵《さく》の上に登って見ている子供も有ました。手を拍《たた》く音が静《しずま》って一時|森《しん》としたかと思うと、やがて凛々《りり》しい能く徹る声で、誰やらが演説を始める。言うその事柄は能く解りませんのでしたが、一言、一言、明瞭《はっきり》耳に入るので、思わず私も聞惚れておりました。
丁《とん》、と一つ、軽く背《せなか》を叩かれて、吃驚《びっくり》して後を振返って見ると、旦那様はもう堪《こら》えかねて様子を見にいらしったのです。旦那様も唖《おし》、私も唖、手附《てつき》で問えば目で知らせ、身振で話し真似で答えて、御互にすっかり解った時は、もう半分|讐《あだ》を復《かえ》したような気に成りました。私も随分|種々《いろいろ》な目に出逢って、男の嫉妬というものを見ましたが、まあその時の旦那様のようなのには二度と出逢いません。恐らく画にもかけますまい。口に出しては仰らないだけ、それが姿《かたち》に顕《あらわ》れました。目は烈しい嫉妬の為に光り輝やいて、蒼ざめた御顔色の底には、苦痛《くるしみ》とも、憤怒《いかり》とも、恥辱《はじ》とも、悲哀《かなしみ》とも、譬《たと》えようのない御心持が例の――御持前の笑に包まれておりました。総身《からだじゅう》の血は一緒になって一時に御頭《おつむり》へ突きかかるようでした。もうもう堪《こら》え切ないという御様子で、舌なめずりをして、御自分の髪の毛を掻毟《かきむし》りました。こう申しては勿体《もったい》ないのですが、旦那様程の御人の好い御方ですら制《おさ》えて制えきれない嫉妬の為めには、さあ、男の本性を顕して――獣のような、戦慄《みぶるい》をなさいました。旦那様は鶏を狙《ねら》う狐《きつね》のように忍んで、息を殺して奥の方へと御進みなさるのです。怖《こわ》いもの見たさに私も随《つ》いて参りました。音をさせまいと思えば、嫌《いや》に畳までが鳴りまして、余計にがたぴしする。生憎《あいにく》敷居には躓《つまず》く。耳には蝉《せみ》の鳴くような声が聞えて、胸の動悸《どうき》も烈しくなりました。廊下伝いに梯子段の脇まで参りますと、中の間の唐紙が明いている。そこから南向の御部屋は見通しです。私は柱に身を寄せて、恐怖《こわごわ》ながら覗きました。
南の障子にさす日の光は、御部屋の内を明るくして、銀の屏風に倚添《よりそ》う御二人の立姿を美しく見せました。いずれすぐれた形の男と女――その御二人が彩色の牡丹の花の風情《ふぜい》を脇にして、立っていらっしゃるのですから、奥様も、歯医者も、屏風の絵の中の人でした。儚《はかな》い恋の逢瀬《おうせ》に世を忘れて、唯もう慕い慕われて、酔いこがるるより外には何も御存じなく、何も御気の付かないような御様子。私は眼前《めのまえ》に白日《ひる》の夢を見ました。男の顔はすこし蒼《あおざ》めた頬《ほお》の辺《あたり》しか
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