分りません――それも陰影《かげ》になって。奥様の思いやつれた容姿《かおかたち》は、眉《まゆ》のさがり、目の物忘れをしたさまから、すこし首を傾《かし》げて、御頭《おつむり》を左の肩の上に乗せたまでも、よく見えました。御二人は燃えるような口唇《くちびる》と口唇とを押しあてて、接吻《くちづけ》とやらをなさるところ。奥様は乳房まで男の胸に押されているようで、足の親指に力を入れて、白足袋の爪先で立ち、手は力なさそうにだらりと垂れ、指はすこし屈《かが》め、肩も揚って、男の手を腋《わき》の下に挟んでおいでなさいました。手も、足も身体中の活動《はたらき》は一時に息《とま》って、一切の血は春の潮の湧立《わきた》つように朱唇《くちびる》の方へ流れ注いでいるかと思われるばかりでした。
あまりのことに旦那様は物も仰《おっしゃ》らず、身動きもなさらず、唯もう御二人を後から眺めて、不動《じっと》其処へ棒立のまま――丁度、釘着《くぎづけ》にして了った人のように御成なさいました。
「最敬礼、最敬礼」
と丘の上の式場で叫ぶ声は御部屋の内まで響きました。
遽《にわか》に、表の格子《こうし》の開《あ》く音がして、
「只今」
と御呼びなさるのは御客様の御声。
「今、帰りましたよ」
二度呼ばれて、御二人とも目を丸くして振返る途端――見れば後に旦那様が黙って立っていらっしゃるのです。奥様は男を突退《つきの》ける隙《すき》も無いので、身を反《そら》して、蒼青《まっさお》に御成なさいました。歯医者は、もう仰天して了《しま》って、周章《あわて》て左の手で奥様の腮《あご》を押えながら、右の手で虫歯を抜くという手付《てつき》をなさいました。
誰も御出迎に参らないうちに、御客様はつかつかと上がっていらっしゃると見え、唐紙の開く音がして、廊下が軋《きし》む。稲妻《いなずま》のような恐怖《おそれ》は私の頭の脳天から足の爪先まで貫《つ》き通りました。
その時、吹き立てる喇叭や、打込む大太鼓の音が屋《うち》の外に轟渡《とどろきわた》りました。幾千人の群は一時に声を揚げて、
「天皇陛下万歳。天皇陛下万歳」
それは雷の鳴響くようでした。
底本:「旧主人・芽生」新潮文庫、新潮社
1969(昭和44)年2月15日発行
1970(昭和45)年2月15日2刷
入力:紅邪鬼
校正:Tomoko.I
1999年12月10日公開
2000年12月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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