うだ二人で出逢《であい》をしているところを乃公に見せてはくれまいか。きょうは赤十字社の北佐久総会というのがあるから、乃公は其処へ出掛る振《ふり》をして、お隣の小山さんに話している。よしか。桜井が来たらば、直に乃公の処へ知らしてくれ。お前の役はそれで済むんだ。そうしてお前はとにかく一旦柏木へ御帰り。お前がこれまで能く勤めてくれたのには、乃公も実に感心している。いずれ乃公の方からお前の御母《おっか》さんの処へ沙汰《さた》をして、悪いようにはしないから」
「難有うぞんじます」
 丁《とん》、丁《とん》、丁《とん》と梯子段《はしごだん》を上って来る人の気配がしました。旦那様は急に写真を机の引出へ御隠しなすって、一口牛乳を召上りました。白い手※[#「※」は底本では「はばへん+白」、59−8]《ハンケチ》で御口端を拭《ふ》きながら、聞えよがしの高調子、
「さあ、今日は忙しいぞ」

    六

 丁度その日は冬至です。山家のならわしとして冬至には蕗味噌《ふきみそ》と南瓜《とうなす》を祝います。幸い秋から残して置いた縮緬皺《ちりめんじわ》のが有ましたから、それを流許《ながしもと》で用意しておりますと、花火の上る音がポンポン聞える。私はいそいそとして、物を仕掛けてはついと立って勝手口の木戸を出て眺《なが》めました。見れば萌初《もえそ》めた柳の色のような煙は青空に残りまして、囃立《はやした》てる小供の声も遠く聞えるのでした。
 軒並に懸る赤十字の提灯《ちょうちん》、金銀の短冊、紅白の作花《つくりばな》には時ならぬ春が参りましたよう。北佐久総会とやらの式場は、つい東隣の小学校の広い運動場で、その日は小諸|開闢《かいびゃく》以来の賑《にぎわ》いと申しました位。前の日から紋付羽織に草鞋《わらじ》掛という連中が入込んでおりましたのです。長野から来た楽隊の一群は、赤の服に赤の帽子を冠って、大太鼓、小太鼓、喇叭《らっぱ》、笛なぞを合せて、調子を揃《そろ》えながら町々を練って歩きました。赤い織色の綬《きれ》に丸形な銀の章《しるし》を胸に光らせた人々が続々通る。巡査は剣を鳴して馳廻《かけまわ》っておりました。島屋の若旦那、荒町の亀惣様、本町の藤勘様、越後屋の御総領、三浦屋の御次男、いずれも羽織|袴《はかま》の御立派な御様子で御通りになりました。歯医者は割笹《わりざさ》の三つ紋で、焦茶色の中折を冠りまして、例の細い優しい手には小豆皮《あずきがわ》の手袋を着《は》めて参りました。急いで歩いて来たものと見え、暫らく土塀《どべい》の傍に立って息を吐きましたが、能く見れば目の縁も紅く泣|腫《は》れて、色白な顔が殊更《ことさら》いじらしく思われました。姿の美しい男は怒れば怒ったでよし、泣けば泣いたでよく見えるものです。情を含んだ目元は奥様に逢いたさで輝いて、何もその外のことは御存《ごぞんじ》ない様子が、反《かえ》っていたわしくも有ました。いつ見ても、悪《にく》めないのはこの人です。早く人目に懸らぬうちと、私は歯医者を勝手口から忍ばせて、木戸を閉めました。
「お定さん、今日は大層|賑《にぎやか》だね」
「まあ、人が出ましたじゃ御座ませんか」
「お前さん、どうしたの。なんだか蒼い顔してるね」
「御寒いからです」
「寒けりゃ女は蒼くなるものかね。私は今まで赤くなるとばかり思ってた。いいえ、戯言《じょうだん》じゃないよ。全くこう寒くちゃ遣切れない。手も何も凍《かじ》かんで了う。時に、あの何は――大将は……」
「旦那様ですか。もう最前《とっく》に御出掛《おでまし》に成りました。貴方、奥様は先刻《さっき》から御待兼で御座ますよ」
 歯医者は少許《すこし》顔を紅くして勝手口から上りました。続いて私も上りまして、炉に掛けて置いたお鍋の蓋を執って見ますと、南瓜《とうなす》は黄に煮え砕けてべとべとになりましたが、奥様の好物、早速の御茶菓子代り、小皿に盛りまして、蕗味噌《ふきみそ》と一緒に御部屋へ持って参りました。奥様は思いくずおれて男とおさしむかい、薄化粧した御顔のすこし上気《のぼ》せて耳の根元までもほんのり桜色に見える御様子の艶《あでや》かさ、南向に立廻した銀|屏風《びょうぶ》の牡丹花《ぼたん》の絵を後になすって、御物語をなさる有様は、言葉にも尽せません。伏目勝に、細く白い手を帯の間へ差込んでおいでなさいましたから、美しい御髪《おぐし》のかたちは猶《なお》よく見えました。言うに言われぬ薫《かおり》は御部屋のうちに匂い満ちておりましたのです。怒と恨とで燃えかがやいた私の目ですら、つい見恍《みと》れずにはいられません位。はっと心付いて私は御部屋を出ました。――もう奥様の御運は私の手の中に有ましたのです。
 さすがに私も台所に立って考えました。
 これを旦那様に申上げたら、事の破れはさてどうなる
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